2011年3月12日 ~震災翌日 仙台から桑折まで歩く①~

携帯のアラームがけたたましく鳴り響く。午前4時半のことであった。
間髪を入れず音を止め、「すいません」と周囲に向かって小声でお詫びする。
ここは、仙台駅に程近い市立五橋中学校の理科室。
昨日発生した東北関東大震災により外出先から帰宅できなくなった人たちの避難場所であった。
 
私は、若林区内の勤務先にて被災した。
勤務先はメーカー。工場内は激しい揺れで何百キロもある機械が大きく揺れ動く有様であった。あんな激しい揺れ、生まれて初めて体験した。
携帯のワンセグで震災の情報を得た同僚が「この辺りにも津波が来るかもしれないぞ」と警告を発したのを契機に仕事どころではなくなり、従業員一同社屋から避難。宮城野区内に住む同僚のクルマで陸前原ノ町駅の近くまで乗せてもらった後、徒歩で仙台駅まで移動した。
予想はしていたが、仙台駅を発着する電車や高速バスは、すべてストップしていた。そもそも駅舎内が損壊しているということで、中にすら入れない。「五橋中学校に移動してください」との係員の案内に従い、移動した次第。
この時点で既に日没を迎えており、移動は不可能。結局、同校の理科室で一夜を過ごさねばならなかった。
救援物資なんて大層なものは全く提供されず、着の身着のまま。辛うじて段ボールや新聞紙が配られたので身体に巻きつけてみたが、防寒効果は殆どなかった。
加えて、室内には100人ほどの被災者が詰めかけていたため窮屈な体制を余儀なくされたし、夜中には何度か余震もあった。安眠できる訳がない。いや、全く眠れない訳ではなかったのだが、睡眠できた時間はトータルでも1、2時間程度だったのではなかろうか。
眠れないから、ワンセグで情報収集。地震津波の様子が延々と報じられていたものの、東北地方太平洋岸全体が甚大な被害を被っており、全貌がまったく掴めない。まさに、未曾有の大災害の一言に尽きる大震災であった。
 
4時半のアラームが鳴ってからは、全く寝られなかった。そのうち空が白んできた。
昨日に引き続き、ワンセグで情報収集。被害の全貌はまだ分からない。一言で言えば「とっちらかっている」。
整理がつかないからより詳しい情報が報じられないか尚更目を皿にして画面に食い入る。が、間抜けなことに、6時前に携帯の電源が切れてしまった。これでは情報収集も何もあったものではない。
今日は上の子の9歳の誕生日。当日はせめてハッピーバースデイの声ぐらい伝えたかったのだが、それもままならない。なお、妻子は桑折町内の自宅を離れ、1キロほど離れた妻の実家に身を寄せているという。そのことは昨日の段階で連絡が通じたので、一応知っていた。
仕方がない。公衆電話から妻の実家に電話するか… そう思い、理科室を後にする。出がけに、避難者に対し毛布を提供して回っているボランティアの方とすれ違う。ただし、相当な品薄で、高齢者と子供に限定して配布しているとのこと。
激甚災害に見舞われたので、公衆電話からの通話が無料になっていることは知っていた。だからいくばくかの期待をかけて、いくつか公衆電話を巡ってはかけてみたのだが、ただの一度も通じなかった。ひょっとしたら、電話線自体がやられているのかもしれない。どうしたものだろう… 途方に暮れ、頭を抱える。
このまま中学校に戻ってしばらくじっとしていようか? それとも… 私の中で、無謀な考えが、頭をもたげていた。
いっそのこと、仙台から桑折まで、今日中に歩いて帰ってしまおうか? 
両者の距離は70キロ弱。今はまだ早朝だし、丸一日かけて歩けば、たどり着けない距離ではない。加えて、今月の2日、5日、9日と、都合3回に分けて仙台近郊から白石まで歩いたばかりでもある。コースはそれなりに熟知しているつもりであった。
ただし、昨日の段階で、私がそんな気持ちを抱くであろうことを読みとっていたのか、妻からは「決して歩いて帰ろうだなんてバカな真似はしないでね」と釘を刺されてもいた。外を歩いている最中に余震が起こったら、二次災害に遭う危険性が高くなる。学校は頑丈な建物のはずだから中にいれば安心… そのように言われた。
しかし、五橋中学校に戻ったとしても、毛布も食べ物も満足に与えられないという環境下で何日も過ごせるだろうか? 正直自信はなかった。このまま兵糧攻めに遭って日々衰弱していくのならば、体力がある今のうちに歩いてでも帰宅する道を選んだ方がいい… しばし逡巡の末そのような結論を出し、思い切って南へ向けて歩を進めることにした。午前6時を少し回った頃のことである。