2006年8月19日 ~桑折から貝田まで~

最近、自宅から一日中歩いたらどこまで行けるんだろう? と夢想する時がある。
理論上は、1時間で4キロ歩いたとして、1日で30キロぐらいは歩けるだろうか。自宅のある福島県桑折(こおり)町からだと北なら宮城県大河原町、南なら二本松市あたりまでは行けそうだ。
ちなみに、いままで一番長い距離を歩いたのは、確か14年前、まだ学生だった20歳の頃だったか。友人と午前3時ぐらいまで飲んでいて、福島市中心部から当時住んでいた金谷川の自室まで歩いて帰った時のこと。片道にして10キロ近い距離になると思うのだが、かかった時間は2時間ぐらい。夏の日のことだったので、帰宅する頃には陽が昇っていた。
最低でも、このぐらいの距離は歩いてみたい…と思っていた。

そこで唐突だが、2006年8月19日の早朝、ものは試しとばかり、歩いてみることにした。
行先は、福島県宮城県との県境に位置する東北本線の貝田駅。自宅のある桑折町からは9キロほどの道のりだ。帰路は貝田駅7時01分発発の上り列車に乗ることを想定して、朝5時に桑折町の自宅を出発。やや早足で、自宅近くを通っている奥州街道(国道4号線の旧道)を北へと向かう。
ちなみに服装は、Tシャツに短パン。あとタオル1枚と定期券 ~私は桑折から仙台まで通勤しており、貝田はその経路上なのだ~ それに現金少々を持参。ちなみに飲料類はまったく携帯していないばかりか履いているのも靴ではなくサンダルで、これで2時間歩こうというのだから、やや無鉄砲気味の出発ではある。
陽が昇ったばかりの道。久々に歩いたが、クルマの通行も殆どないし気持ちいい。病み付きになりそうだ。でも、沿道は田んぼや果樹園が続く農村地帯。早起きして農作業に励む人を何人か見掛けた。年配の方が多い、高齢化の波はこの桑折でも進んでおり、今や町民の27パーセントが65歳以上という構成になっている。
時計を見ながら、更に北へと進む。30分ほど歩くと隣の国見町へと入る。入るとすぐに、町の中心である藤田の町並み。桑折と同じく奥州街道の宿場町だった藤田だが、古い家屋や蔵が目立ちしかも細長い町並みでいかにも宿場町然としている桑折に比べると、藤田の雰囲気は少し違う。町から北西に少し離れた所に東北本線の藤田駅があり、加えて南東に少し離れた所に公立藤田病院がある関係で、商店街は必ずしも奥州街道に沿っておらず、駅や病院の方向に向かっても延びている。
町の電信柱には、街灯の他に福島県北部の名産である桃、そして武将をイメージしたキャラクターが描かれた看板がついている。この武将は、源義経国見町では義経ゆかりの町を自称し毎年9月23日 ~9・2・3で「くにみ」なのだ~ には「義経まつり」というイベントを開催しているのだ。それほどの盛り上がりを見せるにも関わらず、実は国見町義経とを結び付ける史実は、まったく存在しない。むしろ浅からぬ繋がりがあるのは、後述するようにその兄の源頼朝なのであるが。
藤田の町を抜けると旧道は国道4号線に合流し、ほどなく歩いた所にある県北中学校前で出発から1時間経過。その県北中学校の脇から、旧道は再び国道4号線から分かれ出る。このあたりは既に福島県宮城県との県境の峠道に差し掛かっていて国道4号線をはじめ東北本線東北自動車道が厚樫山の麓を巻くように半周しながら一気に高度を上げていくが、国道4号線の南東を通っている旧道は逆に一旦坂を下った後で、国道等の後を追うようにクネクネカーブを描きながらゆっくりと高度を上げていく。
ところで、今「奥州街道」と書かずに「旧道」と書いたが、実はこの道は奥州街道ではなく旧国道4号線である。このあたりの奥州街道は国道4号線とその北西を沿うようにして走っている東北本線との間を通っていたようだが、現在は農道となっているらしく、その跡を見つけることができなかった。できる限り奥州街道を歩いてみたかったが、このあたりではそれは不可能のようだ。
旧道を歩いてしばらくすると、阿津賀志山防塁跡と書かれた史跡の看板が目に入る。実はこれこそが国見町と頼朝とを結び付けるものなのだ。この防塁は、1189年にこの地で頼朝率いる源氏と平泉の奥州藤原氏とが合戦した際に、宮城県境に陣取った平泉方の軍勢が築いたものである。源氏方はこの防塁に悪戦苦闘し、防塁の西、羽州街道の小坂峠側から平泉方の本陣の搦め手に進入し、これを打ち破ったとのことである。
防塁の近辺は、果樹園が多い。名産である桃の出荷は既に終わっており、まだ実が青い林檎の果樹園が目立つ。昔この地で戦があったとは思えない、のどかな風景である。
緩やかな上り坂はしばらく続く。貝田まではあと1時間を切っていると思うが、多少しんどくなってきた。が、私のそんな思いをせせら笑うかのように、さっきから野球のユニフォームを着た少年達の自転車が坂の上から疾走してくる。今はまだ夏休みだからか少年達は皆一様に眠たげで、気だるそうに「おはようございま~す」と挨拶をしてくる。いや、自転車のスピードが早いので「おはようござ…」ぐらいまで口にしたところですれ違ってしまい、まともに挨拶を聞くことすらできなかった。国見に限らず福島県の小学生は挨拶の励行に対しては総じて礼儀正しく好感が持てるのだが、そんな中途半端な挨拶だったら、いらない。
旧道を30分ほど歩くと国道4号線と交差。このあたりで、旧国道4号線はどうやら奥州街道に戻ったようだ。少し歩いて着いたところは貝田の旧宿場町。集落が何度か大火に見舞われたとかで往年の家屋こそ殆ど残ってないものの、沿道にズラリと並ぶ家並みは旧宿場町そのもので、タイムスリップしたような気分になる。また、集落内に「貝田宿」の名を掲げた看板や集落の由緒来歴が書かれた案内板が建っているのも、宿場町ムードを高めてくれる。さほど規模は大きくない集落だが、ここまで歩いてきた甲斐があったな、とふと思う。
貝田の集落を通り抜けると上り坂はようやく緩やかになり、分水嶺に位置する貝田駅に着く。時計を見ると、6時41分。予定より若干早い到着だ。余った時間を使って、駅のもう少し先まで歩いてみることにした。駅から200メートルほど歩くと県境の標識があるので、とりあえずはその先まで行ってみたいと思ったのだ。
標識の先まで歩き一応宮城県に足を印した上で、再び貝田駅へ。待合室しかない無人駅だが地元住民の方が丁寧に手入れしており、なかなかきれいな構内だ。無人駅といえばどこもかしこも荒れ放題というのが珍しくないのだが、貝田はよくやっていると思う。集落の様子といい、駅の様子といい、住民の地元を愛する姿勢が感じられ、貝田に対する好感が強まった。
貝田駅で、「家から貝田まで歩いたよ!」と妻にメールしてみた。が、反応はない。それもそのはずで、土曜日の今の時間帯、妻も二人の子供(4歳の息子と2歳の娘)も、まだ布団の中だったのだ。汗まみれになって帰宅した私を見て、ようやくコトに気がついたという次第であった。