2006年8月20日 ~桑折から福島まで~

昨日は自分でも結構歩いたなと思ったものだが、一晩寝てみると、意外に疲れは残っていなかった。筋肉痛もなければここ数年持病となっているふくらはぎのこむら返りも起こらなかった。
ならば、今日も早朝散歩に出掛けよう。昨日北へと歩いた奥州街道を今度は南へと向かい、福島の街を目指すことにする。昨日とは違い平坦な道のりではあるが、東北本線の距離でみると桑折~貝田間は9.0キロ、桑折~福島間は13.1キロだから1.5倍近くになる。果たして無事に歩けるか。でも今は好奇心が勝っている。行こう。
出発時間は昨日と同じ午前5時。昨日は水筒類を持たずに行ったが、今日は妻がペットボトルを持たせてくれた。また、履き物も、昨日のサンダルからAIGLEのトレッキングシューズに替えた。ウォーキングに対する本格度が、少しだけアップした。
自宅を出て、奥州街道に沿って細く長く延びる桑折の町を歩く。南端に擬洋風建築の旧伊達郡役所を配した町並みは近年シャッター通りと化しつつあるが、奥州街道羽州街道が分岐した往年の大宿場町の風格を残している。20分ほど歩くと市街地が尽き、田園風景が展開。が、右側には大きな工場がいくつか建っている。地方ではよくある誘致工場だが、これらの工場がもたらす地域の雇用、財政に対する貢献度に感謝する半面、建物自体は周囲の農村風景に似つかわしくないな、と思う。
そんな工業地域の中でもひときわ規模が大きい曙ブレーキの工場の前を通りぬけると、伊達市に入る。かつては伊達郡伊達町だったが、今年の1月に周辺の4町と合併し、市制施行した新しい市だ。市町の境界に建てられた標識が、新しくてとてもきれいなのが印象的である。
伊達市に入るとすぐに、田園風景は姿を消し、住宅街となる。しかしその家並みは、桑折と違って古い家屋が少ないのが特徴だ。厳密に言うと古い家屋がなくはないのだが、宿場町で見られるような間口が狭く奥行きが深い区画になっておらずむしろ農村部の屋敷のような雰囲気。そしてその周囲にスプロール現象的に新しい家々が建ってしまったというのが、伊達の印象である。伊達は奥州街道に面してはいるが宿場町ではなく、1895年にこの地に東北本線の伊達駅ができてから、西の福島市飯坂町、東の伊達市保原町梁川町とを結ぶ交通の要衝として栄えた町。そして近年でも福島市ベッドタウンとしても発展を続け、福島県中通り北部では珍しく人口が増加基調にある。
住宅都市という性質を持つせいか、伊達には商店街らしいものが殆ど見られない。強いて言えば国道399号線を渡った先、福島信用金庫の支店のあるあたりに商店が集中し、このあたりは天王通りと名付けられているのだが、その規模は、桑折や藤田の商店街とは比べ物にならないほど小さい。なお、このあたりの奥州街道は1971年まで福島交通軌道線が走っていて、福島信用金庫の前で保原行の路線と飯坂町湯野行の路線が分岐していた。伊達の旧地名をとって長岡分岐点と呼ばれ、軌道廃止から35年が経過した現在でも伊達市伊達郡の年配の人には使用頻度が高い地点名となっている。
伊達の住宅街をしばらく歩き、摺上川を渡る。渡った先は福島市、瀬上の宿場町である。桑折と福島の中間に位置する瀬上は1902年に町制を施行したと記録にあるから比較的大きな宿場町だったと推察されるし、それを示すかのように家並みに混じって蔵が目立つ。
もう一つ目立つのは、内池という苗字の家が非常に多いこと。後で調べてみたらこの苗字の家の先祖は近江商人だということで、そのことからも、瀬上がこの地域の物流の拠点だったことが推察される。
しかしながら、瀬上のかつての繁栄ぶりを示す案内板の類は、町のどこにも、設けられていなかった。桑折にしろ藤田にしろ貝田にしろ、昨日から今朝にかけて歩いた旧宿場町はそのこと自体を後世まで伝えようとの意図を感じたのだが、瀬上はそれが希薄なように思う。瀬上は終戦直後の1947年には福島市編入されてしまっているから、住民も福島への帰属意識はあっても瀬上へのそれは低いのかもしれない。
瀬上の町の南はずれで、それまで東側を通っていた国道4号線が急に近寄ってくる。場所によっては100メートルも離れていないところもあり、国道4号線沿いのロードサイドショップやパチンコ屋の中には奥州街道側に駐車場の裏出口を設けているものすらあるぐらいだ。つまり天下の奥州街道が国道の裏通りと化している訳で、時代の流れとは言え、ちょっと寂しい気持ちになる。瀬上から南の福島市鎌田、本内の奥州街道は、終始そんな雰囲気で歴史を感じさせる遺構は何ひとつなかった。何の感慨もなく、住宅街をただテクテクと歩く。気がつくと、松川の河川敷。かつては橋が架かっていたようだが今は橋がなく、奥州街道はここで跡切れてしまう。仕方がないので、ここだけはすぐ東側を通っている現・国道4号線に移動し、松川を渡河する。ここから先は福島市の中心部。福島市のシンボル・信夫山が、すぐ目の前にそびえている。
福島市中心部も奥州街道の跡をたどろうと思っていたのだが、詳しい資料を得る機会がないままに来てしまった。とりあえず、福島交通軌道線の跡=奥州街道と勝手に解釈し、歩を進めることにする。この道は旧電車通りと呼ばれていて、今でも軌道が走っていた時代を思い起こさせるように商店街が残っている。気になって後で詳しく調べてみると、この道は本当に奥州街道だったようだ。怪我の功名である。
相馬方面へ抜ける国道115号線が分岐する岩谷下の交差点から旧電車通りは分岐し、国道4号線の東側を並行して通っている。通りに入るとまず目につくのが、大きな福島競馬場。今日はイベントがあるようだが、さすがに早朝だけあって人通りは殆どなく、いつも忙しそうに交通整理をしている警備員の姿もなかった。時計を見ると、ここでようやく午前7時。出発から2時間が経過したが、まだまだ歩けそうだ。
競馬場を過ぎると、いよいよ商店街に入る。ただ、沿道の町の様子を見ると、商店街の「質」は町によって若干違うような印象を受ける。
まず、競馬場のすぐ南にあるのが、浜田町の商店街。かつては福島大学教育学部、現在は福島東高校や福島大学附属中学が所在する学園町で、商店の構成も学生が利用しそうな雰囲気の飲食店の割合がやや高めの印象だ。昔は古本屋もあったと記憶しているが、あまり真剣に探していなかったせいもあり、見逃してしまった。果たして今もあるのかどうか。
その浜田町のすぐ南にあるのが、豊田町の商店街。浜田町と豊田町とは現在国道114号線によって隔てられているが、江戸時代はここが福島城下の境目であり、当時豊田町は馬喰町(ばくろうまち)と呼ばれ城下最北端の町だった。今でもその面影はわずかながら残っていて、往時をしのばせる雰囲気の旅館などがあったりする。
豊田町の南端で奥州街道は西に向きを変え、国道4号線を横断。北町、上町(うわまち)、大町、本町(もとまち)と進む。そして本町で南に向きを変えるのだが、今日はここで散歩を打ちきり、福島駅へと歩く。到着時刻は、7時31分。先述した東北本線桑折~福島間の距離13.1キロを今回の歩行距離の近似値とするならば、時速5キロ強で歩いた計算になる。
しかし、今日はさすがに疲れた。福島発7時46分の電車で帰途に就いたのだが、一度席についてしまうと、立ち上がるのが非常に辛かった。

福島まで散歩した日の翌日、ちょっと考えてみた。
このまま奥州街道を歩いていったら、どこまで行けるだろうか。まず手始めに一昨日の終点・貝田まで電車で行って白石までの約12キロの道のりを歩き、その次の回は昨日の終点・福島まで電車で行って金谷川までの約9キロの道のりを歩き… それを続けていって早朝散歩という枠内でどこまで歩けるか、地図や時刻表とにらめっこしてみる。
理論上は、北は仙台、南は郡山あたりまでは行けそうな感じだ。以下、表にして示すと、こんなルートか。

【第5回目】 白石市大河原町 約13キロ
【第6回目】 福島市金谷川二本松市 約14キロ
【第7回目】 大河原町柴田町槻木 約8キロ
【第8回目】 二本松市~本宮町五百川 約13キロ
【第9回目】 柴田町槻木~名取市 約14キロ
【第10回目】 本宮町五百川~郡山市 約10キロ
【第11回目】 名取市仙台市 約11キロ

貝田~白石間は今度の土曜日の8月26日、福島~金谷川間は翌日曜日の8月27日に、早速行ってみたい。しかしそれ以降のスケジュールとなると、ちょっと厳しいものがある。その翌週は休日が9月3日の日曜日しかなく、しかもその日は家族で仙台まで野球観戦に行く予定。となると、更にその翌週の日曜日・9月10日が、散歩再開の日となる。となると、上記のスケジュールをすべてこなすには10月半ばまでの期間は必要になろう。その間、気候は段々涼しくなって今のようにTシャツ・短パン姿では出歩けなくなるだろうし、長雨や台風の影響で雨天順延の日もあるかもしれない。
とりあえず、10月中に歩き終えることができれば、と思った。まあ何とか、やってやれないことはないだろう。