2006年8月26日 ~貝田から白石まで~

月曜日から金曜日まであっという間に過ぎ去り、8月26日の土曜日。今朝も、散歩に出掛けようと思う。天気は雲がかかっているものの多少晴れ間も覗いており、雨の心配はなさそうだ。
5時40分に起床し朝食を摂った後、いつもは通勤に利用している桑折発6時30分の電車に乗って前々回のゴール・貝田まで。貝田着6時39分。ここから散歩の再開となる。
先日も記したように、貝田から200メートルほど歩くと、もう県境。ここから先は宮城県白石市で、今日のゴール予定の白石駅まで、白石市内を延々と歩くことになる。
もっとも、分水嶺=県境という訳ではなく、県境から先も、緩やかな上り坂がしばらく続く。300メートルぐらい歩いた先だろうか。東北自動車道東北本線と国道4号線とをまとめて跨いでいる箇所があって、そこが分水嶺。あとは下り勾配となる。
貝田駅近辺の奥州街道は実は東北本線の路盤の下敷きになってしまっているため、ここは国道4号線を歩かざるを得ない。分水嶺の先の下り坂を少し歩いて、ようやく奥州街道と分かる道が国道から分岐する。分岐点に入るとすぐに「越河(こすごう)宿」と書かれた大きな看板があり、越河の宿場町に入る。仙台藩南端の宿場ということもあってか、沿道の家々が大きくて立派なのに驚く。が、しばらく歩いていると、こう表現するのもなんだが家屋がだんだん粗末というか、歴史を感じさせないものになっていく。前回の散歩の項でも述べたが、家々が宿場町の時代からそこにあったものなのかどうかは、家屋そのものではなくその敷地を見れば、何となく推察がつく。歴史ある家の敷地は道路から見ると間口が狭く奥行きが深いのが特徴。ところが、越河の場合は藩境に近い集落南部の家々だけがそのような形になっているのだ。やはり警備のためなのか。それとも何事にも華美を旨とする伊達家流の見栄で、「我が藩は他の地域とは違うぞ」というところを見せびらかしたかったのか。
いや、理由はもう少し別のところにあるのかもしれない。この越河にも東北本線の駅があるのだが、今歩いている宿場町から2キロほど北の地点に設けられている。そのため、明治時代以降に集落自体が駅の方へと北に移動していった可能性がある。その証拠という訳ではないが、越河では、地域の中核をなす小学校もJAも、宿場町と駅のほぼ中間に位置している。
そんな事情もあり越河の集落は奥州街道に沿って南北に細長く広がっているのだが、その北の方、越河駅寄りの一角に、「佐藤人形」のネオンを掲げた建物がある。夜間にここを通過する時など真っ暗な集落の中でこのネオンだけが真っ赤に輝いていて異彩を放っており、なんでこんなところに人形屋が? と常々思っていたものだ。今回その社屋の前を通ることができたのでどんな所だろうと覗いてみると、社屋の入口には「佐藤弓太刀製造所」の看板が。推察するに、元々は狩猟用具を製造していたようで、副業で人形の製作もしていたら何時の間にやら主従が逆転していた、といったところだろうか。
あと、越河にはもうひとつ、なんでこんなところに、と思わせる建物がある。集落から2キロほど北、奥州街道とと国道4号線が再び合流した先にある「ウェディングホールはんざわ」という結婚式場が、それ。周囲には人家もなくこれまた妙なところにあるのだが、こちらもまた、隣に「和風レストランはんざわ」なる食事処があって、食事処 → お祝い膳の提供 → ひいては披露宴の場所提供 という発展を遂げていったのではないかと推察される。
ちなみに、和風レストランはんざわのメイン料理は、鯉料理。鯉といえば、レストランの少し北、越河とその北の斎川との境界に位置する馬牛沼で、鯉の養殖を行っている。レストランの食材も、ここで仕入れているのだろうか。沼近辺はちょっとした休息所のようになっていて食堂や地元で採れた農産品の直売所があったりするが、沼そのものは「鯉供養碑」なるものが建っていて少々不気味な部分もあったりする。
しかし、鯉供養碑ぐらいで驚いてはいけなかった。馬牛沼から更に北へ1キロほど行き、再び国道4号線と奥州街道とが分岐した先にある斎川宿の南側入口では「孫太郎蟲供養碑」なるものを発見。マゴタロウムシってなんだろう。帰宅してからネットで調べてみると、孫太郎虫(蟲)とはヘビトンボの幼虫で、昔は干して疳の虫薬としていたとのこと。斎川は、その名産地であったようだ。
といった具合で妙な供養碑連発で驚いたが、斎川宿自体は、非常に落ち着いた感じのいでたち。しかも、比較的大きい宿場だったようだ。時計を見ると既に8時近く。もはや早朝とは呼べない時間帯で集落内にも人の姿がチラホラとみられるが、どうにも気になるのはお年寄りしか見かけないこと。夏休み中の子供はまだ寝ているのか。それとも子供がいないのか。ちょっと気になるところだ。
斎川宿を過ぎると、再び国道4号線に合流。貝田から続いた下り勾配はこのあたりでようやく終わり、平坦でまっすぐな道を白石まで向かう。実はこの「平坦でまっすぐ」というのが意外に曲者。アップダウンやカーブがあれば確かに苦しいけれど「これを越えれば」という目的がある方が歩くのにもそれなりのハリが出るもので、そういうアクセントのない道は、逆に「どこまで歩いたのだろう」との不安に駆られる。特にこの地域の場合、斎川の集落を出て1キロほど歩いたところに中斎川なんて名前の集落があるから、尚更そう感じる。その中斎川の集落で、福島と宮城の県境をトンネルで抜けてきた東北新幹線の高架橋が上を跨いでいく。奥州街道東北新幹線とが遭遇する箇所は意外に少なく、南からだと国見町藤田以来の顔合わせである。
更に1キロほど歩くと、ようやく今度は白石市中心部へと向かう奥州街道が国道4号線から分岐。とは言うものの、曲がりなりにも50年以上前から市制施行している旧城下町・白石のこと。旧道沿いには新興住宅やらアパートやらが立て込み、しかもどういう訳か警察署まで移転していたりして、往時をしのぶものは殆ど残っていない。
でも、白石の中心街に入ると、様相は一変する。本町(もとまち)の商店街は歴史を感じさせる寺院や白石名産の温麺(うーめん)の製造所が見られ、昔から栄えていたことを伝えてくれる。もっとも、シャッター通りと化しつつある地方都市の中心街の例に漏れず、白石の中心街もまた、最近は苦戦続き。北東15キロほどのところにある大河原町柴田町のショッピングセンターにクルマで買い物に出る市民も少なくないそうだ。
本町で時計を確認すると、8時41分。貝田から白石までちょうど2時間で歩いたことになる。本町から白石駅まではすぐなので早速電車に乗って帰りたいところだが、そこはローカル線。福島方面への列車は9時38分発までないので、しばらく奥州街道沿いに白石市内を散策することにする。
地図で見ると、白石市中心部の奥州街道は、中心街を南北にまっすぐ突っ切っているように見える。ところがそれは旧国道4号線であり、奥州街道のルートは、市街の南にある田町の交差点を曲って1本東側の通りに入り、そこから本町、中町の商店街を通り抜け、国道113号線とのT字路を今度は西へと向かい、長町、亘理町(わたりまち)、更に旧国道4号線と直交して城北町を通り抜け、城北町西端の新町バス停のところで北に折れて白石川の川べりを進み、旧国道4号線の白石大橋の西側で白石川を渡る、というものである。
その通りに、歩いてみた。中町は近代的なアーケード街なので昔日をしのばせるものはなかったが、亘理町や城北町は、ナマコ壁、あるいは洋館風の商店が見られ、なかなか趣のある町だった。一番印象に残ったのは、亘理町にある白石第一小学校の校門。素朴な石造りの校門なのだが、造りがどこか「寺子屋風」なのだ。他ではなかなか見られないと思う。
あと、城北町から見える白石城の復元天守閣もまた、街の景色にマッチしていて良かった。復元天守閣というとどこかケバケバした印象を受けるのだが、白石のは街に自然に溶け込んでいる。

散歩の帰りは電車。白石駅のホームのベンチで、キヨスクで買ったスポーツ新聞を読みながら、電車が来るのを待つ。
数分後、到着のアナウンス。立ち上がろうとするがなかなか身体が動かない。歩いている時は全然感じなかったのだが、疲労が蓄積していたようだ。特に腰が重い。
そんな感じで、今日一日は筋肉痛との戦いになってしまった。これまでの散歩ではそんなことなかったのだが、慣れないところを歩いた緊張感から来たのだろうか。
そんな事情をまったく知らない子供たち。私が帰宅するやいなや、「パパ、あそぼう」とせがんでくる。ここできちんと応じるのが良きパパなのだろうが、無情にも私は断ってしまう。ただし、「お昼ご飯食べて、お昼寝してから遊ぼうね」と言い添えて。最初は納得していなかった子供たちも、何度か繰り返して言われるうちに、納得した模様だ。
という訳で、昼食後はお昼寝タイム。案の定、私が一番長い時間眠っていた。
「パパ、おきよう、あそぼう!」との子供の声でようやく起床。約束は守らなければ。筋肉痛はまだ収まっていなかったが、子供を連れて、近所の公園へ。滑り台、ブランコ、ジャングルジムと、30分ぐらい遊んできた。
遊び終わった子供たちは、楽しそうな笑顔。その様子を見ていると、こちらの疲れも吹き飛んでしまう。