2006年09月17日 ~北白川から槻木まで~

昨日に引き続き、今日も散歩に出かける。行き先は、前々回の終点・白石市北白川から柴田郡内を横断し、郡の東端にあたる柴田町槻木までを予定している。が、心配なのは何と言っても天候。昨夜雨が降ったので路面は濡れているし、雲は低いし、今は雨こそ止んでいるけれど天気予報は雨。散歩中だけは何とかもってくれ、と祈るような心境である。
桑折発6時30分の電車に乗り、北白川着6時59分。散歩再開地点の篭石交差点には7時06分に着いたが国道4号線の横断待ちに2分ほどかかったため、実質的なスタートは7時08分であった。今回の散歩では国道4号線とあと3回平面交差する予定なので、このように信号待ちで何分かのロスがあるかもしれない。
篭石から少し東に歩くと、大河原町に入る標識がある。町の木である桜の絵と、アルファベットの「O・G・A」をデザイン化したと思われる町章が、描かれている。アルファベットが織り込まれている町章とはなかなかハイカラだ。
標識から3分ほど歩くと、奥州街道は国道4号線から離れ、金ヶ瀬の宿場町へと入る。閑静な家並みが1キロほど続くいかにも旧宿場町然とした佇まいだが、家々の玄関には、ここでしか見られない特徴がある。
金ヶ瀬は元々仙台藩の配下にあたる白石の片倉家が管轄する宿場町で、その時の宿の範囲は現在の集落の西側(上町)のみであった。ところが白石川の氾濫で宿場町全体が被害に遭ってしまったため、仙台藩直轄でその東側に新しい町(新町)が設けられたとのこと。従って、上町の家々の玄関は片倉家の拠る白石の方を向いており、新町の家々の玄関はその逆の仙台の方を向いている、という次第なのだ。私はこの話を事前に聞いており本当にそうなのだろうかと半信半疑のままに集落を歩いたのだが、比較的新しい家が多いにも関わらずその原則が現在でもさほど崩れていないのに驚いた。
面白いところに昔日の面影を残す金ヶ瀬だが、その東端では土地区画整理事業が行われており、大河原の市街地と地続きになっている。奥州街道が国道4号線と再び合流する宿場町の東端からみやぎ生協、ケーヨーデイツーユニクロ、ギフトプラザ、カワチ、洋服の青山… とどこかで見たようなロードサイドショップがズラリ。さすがに白石、角田の両市をしのぐ仙南地方随一の商都・大河原だが、宿場町を通ってきた身には、いささか毒々しさを覚えてしまう。金ヶ瀬から大河原までの間奥州街道は国道4号線と一致しているようだが、そんな所を通るのは嫌なので、国道から200メートルほど南の住宅地を東西に通っている少し広い道路を歩くことにする。この道路も区画整理で新しくできたと推察されるが、大河原と金ヶ瀬、宮、そして遠刈田温泉とを結ぶバスが通っているので、歩くにはそれなりの根拠がある。
住宅地を歩くこと15分ほどで、大河原の町に到着。商都に発展した大河原だが、宿場町自体はさほど大きなものではない。なんだか新興住宅地だらけの都市の中でこの一角だけ古いまま取り残されてしまった。そんな感じである。町のすぐ東側には白石川が流れている。川に架かる尾形橋を渡れば東北本線大河原駅はすぐそばだが、委細構わず、歩を進めることにする。
宿場町の北端にある大河原中学校の敷地脇を過ぎると、再び新興住宅地の中に入る。住所を見ると「南桜町」「東桜町」とある。右手には白石川の堤防がチラチラと見え、その上には桜の木が青い葉を繁らせている。ここはちょうど、大河原の名所である白石川河畔の一目千本桜の真只中。花見の季節には観光客でごった返すスポットである。それにしても、ここの町名に限らず、大河原町内には「桜」あるいは「さくら」の名を冠した医院や商店があちこちに見られ、地域のシンボルを大事にしている様子が伺える。
桜町の住宅地を抜けると、奥州街道は再び、国道4号線に合流する。ちなみに、このあたりは行政的には大河原町ではなく、その北隣に位置する村田町の区域。ただし、町域は500メートルほどで終わり、すぐに東隣の柴田町へと入っていく。村田町と柴田町の境界あたりで、奥州街道は再び国道4号線と分かれその南側を通ることになる。でもしばらくの間両者は並行するので、奥州街道の沿道は国道4号線沿いに建ち並ぶロードサイドショップの裏口だらけ。なんだか興醒めである。そのロードサイドショップ街の中心に、サンコアというジャスコを核としたショッピングモールがある。1980年にオープンした「老舗の」ロードサイドショップ。激しい流通戦争に晒され閉店していく店舗も少なくない中で、このサンコアは今なお地域の核として、頑張っている模様だ。
サンコアから500メートルほど歩くと奥州街道は北に向きを変え、国道4号線と直交。ここの信号待ちが異常に長かった。どうやら車両感応式の信号だったらしく、歩行者の私は完全に無視された格好。結局、車両が来るまでの間3分以上は待ちぼうけを食ってしまった。
信号を渡った先にあるのが、船迫の宿場町。文献によっては奥州街道は大河原から白石川を渡って現在柴田町役場のある船岡を経、再び白石川を渡って槻木へ出るという、船岡を経由する東北本線や旧国道4号線に沿ったルートを指し示すものが見られ、それを参考にいくつかの著作や個人ホームページで「船岡にある船迫宿」探しが試みられたりしているのだが、ちょっといただけない。考えてもみて欲しいのだが、橋を架けるのに難儀した江戸時代に整備された奥州街道が、白石川ほどの幅を有する河川を10キロ前後の短距離の間に二度も渡るはずがないのだ。船迫宿はあくまで白石川の北岸・船迫にあり、南岸にある船岡とは何の関係もない。
船迫の宿場町もまた、大河原同様新興住宅地に囲まれた形で残っていた。ここの特徴は道路が極端にジグザグしていることで、Z字状のクランクが二箇所、更に直角に曲る箇所が一つある。どうしてこんな街路なのだろう。地図を見る限りでは地形的な問題かなと推察していたが、現地を歩くとあくまで平坦で、地形が原因ではないことは瞭然。宿場町の東端に中世の居館跡があったから、おそらくはそこの領主が、城下防衛のためにこのような複雑怪奇な道路を設計したのだろうか。
謎が残る船迫を抜けると、周囲は久々の田園風景。しかしここで三度現れるのが国道4号線だったりして、またもや信号待ちとなる。今日は信号待ちで何分損しているのだろうか。で、信号の先がまたまた新興住宅地(柴田町東船迫)だったりするから、大河原や柴田って本当に住宅都市だよな、とある意味感心してしまう。
ところがここの新興住宅地、これまでの新興住宅地とは少し違っていた。地域内にある公民館には船迫の歴史がまとめられた掲示板が設けられていたし、それより何より、奥州街道を住宅地のメインストリートとして残してくれていたのだ。今日の行程では奥州街道を記す案内板の類にはこれまで一度もお目にかかれなかったのだが、こんな所で見られるとは意外だった。
新興住宅地が尽きると、奥州街道は再び国道4号線に接近する。ただし今回は交差も合流もせず、高架橋で悠々と走り抜けていく国道4号線のほぼ直下を細々と通っていく。天下の奥州街道が国道の築堤に踏みにじられたみたいであまり気分は良くないが、右手には雨で水量を増した白石川が流れ、眺めは悪くない。その白石川も、この先の宿場町・槻木で、阿武隈川と合流する。そして、合流地点近くに架けられた白幡橋のたもとから先が、今回の終点である槻木の町となる。
槻木といえば宮城県人の多くが「山崎製パンの工場があるところ」という連想する所。工場は奥州街道の東側150メートルほど離れたところに建っているが、あまりにも大きな建物なので沿道が住宅地であるにも関わらず、視界から見失われることがない。その威容はまさに「槻木城」といった雰囲気である。
住宅地を通り抜けて槻木駅に着いたのは、9時31分だったた。北白川から2時間半歩いたことになるが、その間、心配した雨は降り出すことがなかった。その点はラッキーだった。
が、アンラッキーなことも一つあった、歩き方が悪かったのか、左足に靴擦れができてしまったのだ。我慢できない痛さではないが、歩くのは少し辛い。来週までに回復するかどうか。