2006年09月16日 ~松川から二本松まで~

雨の日が続いている。
前回散歩に出掛けた10日の日曜日こそ夏を思わせる好天だったが、それ以降は雨、雨、雨… 秋雨前線の影響をモロに受けた悪天候が続いている。
今度の土日もまた「曇り後時々雨」の予報。久々の連休なのに散歩ができるかどうか、ちょっと心配になる。これまでの散歩は雨に祟られた経験がないので、晴れなんて贅沢は言わないまでもなんとか振らずにもって欲しいな、とまさに天に祈る気持ちである。
ところで、次回予定している散歩のコースは、福島市松川町から二本松市中心部までである。松川の宿場町、旧安達町にある高村智恵子の生家、そして旧城下町の二本松と、見どころがそれなりにあるコースなのだが、秋の二本松といえば、思い出すのはやはり菊人形。二本松市は昨冬に安達、岩代、東和の周辺3町と合併したこともあり、今年の菊人形は合併記念と銘打って例年よりも規模が大きいものになると聞いている。
なお、菊人形の開催は、10月1日から。従って散歩では祭りの現場は見られない訳だが、多少なりとも雰囲気は味わえるのかな、と期待していた。だから、雨だけは勘弁して欲しい…

二本松までの散歩当日、9月16日。
前日が飲み会だったにも関わらず、5時少し前にきちんと目覚めた。
秋分の日まであと1週間。空はまだ薄暗いのによく起きられたよな、と自分でも感心するやら呆れるやら。
心配していた天気は、霧こそかかっているものの雨は降っておらず、とりあえずは一安心。5時半に自宅を出て桑折駅に向かい、5時42分の始発電車に乗って、松川まで。片道切符は480円。出発地点もずいぶん遠いところになったものである。
6時20分、松川着。列車にはチラホラとお客さんが乗っていたものの、松川で降りたのは私だけ。松川は1972年まで国鉄川俣線が分岐していた比較的構えの大きい駅であるが、お客さんの姿はないわ、幅が広い跨線橋にもポスター一つ貼ってないわ、今日は土曜日だし時間帯的な問題もあるだろうが改札に駅員はいないわで、どこもかしこもがらんどう。淋しい散歩の出発である。
前々回の散歩の項でも書いたが、松川駅は松川の町から2キロほど東にある。となると、駅と街との間は田園風景が定番、というイメージがあるのだが、松川の場合は若干違い、家並みが途切れずに続いている。駅から500メートルほど西側に北芝電機という東芝の関連会社の工場があり、そこに関わりのある人たちが住んでいるようだ。特に駅寄りの地域は街灯に北芝電機の広告が書いてあったりして、ちょっとした「北芝電機の企業城下町」の様相を呈している。
駅から歩くこと25分で、ようやく前々回の終点・松川町のバス停前に到着。ここからは奥州街道を二本松へと目指すことになる。
松川では今、町の西方約2キロのところにある東北自動車道福島松川PAでスマートIC(ETC専用車のIC(インターチェンジ))が設けられていて、町中にはそこへの案内板が目立つ。これまで二本松ICから福島西ICまでの約20キロの間にはICがなかったのでETC専用とはいえICが設けられるのは非常に嬉しいことなのだが、残念なことにICへの取り付け道路が未整備な状況。松川本町(もとまち)の交差点でここを曲がってくれと案内された脇道は、大型車が通るのがやっとの狭い道。この現状に鑑みると、バイパスの緊急整備は不可避と思われる。
実はその狭い道が奥州街道だったりする。旧国道4号線は真っ直ぐに二本松を目指しているが、奥州街道は松川本町(もとまち)の交差点を西に入り、更に次の角を南に曲がり、旧国道4号線と並行する形で南に向かっている。旧4号線沿いの松川の町は旧宿場町という印象がイマイチ希薄なところなのだが、奥州街道に入ると、古い家屋がそこかしこに建ち並び、歴史のある町だと感じさせる。
そのなかに「奥州街道 八丁目宿」という看板を掲げた旅館があった。実は松川の宿場町は「松川宿」ではなく「八丁目宿」という。松川という地名は1876年に八丁目他2村が合併してできた比較的新しい地名で、元々ここはは八丁目村の八丁目宿。江戸時代初期に福島の城下町が整備される以前は米沢街道の分岐点でもあり、また江戸時代後半の文化・文政期には俳諧狂歌などの町人文化が流行を見せ、これらを総称して「八丁目文化」と呼ばれていたということだ。
しかし今現在の松川の町からは、その面影はあまり見られない。10分も歩くともう町はずれで、田園風景が広がる。更に5分ほど歩くと境川という小さな川が流れていて、そこが福島市二本松市との境界線。広かった福島市にようやく別れを告げることになる。
ところで、今二本松市と言ったが、実はこの地域は昨年12月まで安達郡安達町であった。合併によって地域がどのように変わったのか、あるいは変わっていないのか、確められればな、と思っている。しかし何より驚いたのは、眼前にそびえる丘陵。これを越えなきゃならないのか、とちょっと不安になる。前々回の南福島から清水町宿への行程に続き、ちょっとした山登りとなってしまった。
それほど急峻ではないのだがダラダラと続く登り坂を、しばらく登っていく。周囲は田畑に雑木林に家屋少々といった風情。道行く人などありやしない。
いや、いた。前方に集団登校している小学生の一群が見えている。今日学校は休みのはずだが授業参観でもあるらしく、皆制服を着て(福島の小学校の大半は制服着用)歩いている。ゆっくり歩く一群を、スタスタと追い越す。すると、集団のほぼ全員が「おはようございます!」と元気な挨拶。嬉しい反応である。安達の子供は非常に礼儀正しい。
更に少し歩くと、雑木林が目の前から消え、眺望が開ける。目の前には一直線な下り坂。ずいぶん登ったんだなと感心する一方で、更に先に目をやると、またまた長々とした登り坂があるではないか。一難去ってまた一難とはまさにこのこと。東側を走っている旧国道4号線も東北本線もこれほどの勾配はないはずなのに、どうして奥州街道だけが山坂越えなきゃならないのだろうか。このルートを街道に選んだ先人を、一瞬怨む。
それでも何とか身体を動かし、本日二回目の登り坂もクリア。その後しばらく細かいアップダウンをクリアすると、二本柳の宿場町に入る。二本柳の宿場町は長さ300メートルほどしかなく、非常に小規模である。が、道の両脇には堀が流れ、旧家の軒先には「奥の細道 二本柳宿 ○○屋」と屋号が書かれた看板が掲げられるなど、できる限りの範囲で旧態を残そうとの意志を感じ、嬉しくなる。
二本柳を過ぎると、奥州街道は旧国道4号線と急接近。しかし両者は合流も交わりもせず、そのまま二本松まで並走する。向こうは旧国道ながら沿道にロードサイドショップが建っていたりしていかにも「いまどきの道路」然としているが、奥州街道は車両のすれ違いができるかどうかという細道。差は歴然としている。
しかしそんな奥州街道も、旧安達町の南端にさしかかると、様相が一変する。道の両側に家並みが途切れずに続き、二本松の城下町の外延といった風情になっていく。旧安達町出身の画家で高村光太郎の夫人でもある高村智恵子の生家も、この一角にある。現在建っている生家は1992年に復元、再建されたものだが、立派な造りであり、往時からこの界隈が二本松城下の北側入口として栄えていたのだろうと推察される。そう言えば、智恵子の生家の二本松寄りには往時は城下から出入りする馬を管理していたとおぼしき「馬出町」なんて地名もみられた。
その馬出町を過ぎると、いよいよ二本松の城下町。二本松の街は丘陵を挟んで南北に離れていて、奥州街道はまず北側の根崎・竹田地区へと入る。この界隈は鉄道からも国道のバイパスからも見放されて寂れているとの話を聞いたことがあったが、なかなかどうして、そのことが逆に昔の街並みを残す結果となっていて、歩き甲斐がある。
でも、そんな界隈で目立つ建物は、やはり大七酒造の本社だろうか。昔は南東北から北関東にかけてのあちこちの山に設けられた「酒は大七」の看板(今ではだいぶ減った)、今は生酉元(きもと)にこだわった本格的な日本酒造りで知られる大七だが、本社の建物がまたすごい。造り酒屋の建物といえば純和風の造りに正面玄関には杉玉が定番なのだろうが、大七の本社はなんと赤レンガの壁を持つ洋館風。柱には蔦が絡まり、ヨーロッパのワイナリーのような外観なのだ。
奥州街道は、大七の少し先にある交差点で左に折れ、丘陵を越える。その道のまたすごいこと。安達の丘陵よりも急峻なのだ。しかしそんな急坂にも商店や家屋が張り付いているところが、さすが二本松。しかも家具屋が数多く軒を連ねていたりする。二本松はタンスをはじめ家具の産地でもある。坂道にも「家具の町 竹田坂」の看板が並んでいたが今日は家具屋の団体が主催する「家具まつり」が開催されているようで、街も早朝から慌ただしさを見せている。
その竹田坂を越えると、南側の市街地。特に二本松駅に近い亀谷(かめがい)、本町(もとまち)の商店街は、多少古びてはいたがそれなりに活気を感じる街並みに見受けられた。
ここまで歩いてきたが、結局天気は曇りのまま。気温もさほど上がらなかったせいか、それほど汗をかいていない。もうひと踏ん張りしてもう二本松駅の南隣にある杉田駅まで歩こうかなとも思いかけたが、明日も歩く予定だしここは腹八分目。本町のすぐ南に位置する二本松駅から電車に乗って、帰宅することにした。