2010年2月3日 ~「広瀬川」を考える~

今日は休日。天気が良ければ散歩に出掛けたいと思い午前5時に起床したものの、外を見るとうっすらと雪が積もっていたため、散歩は中止とした。
今回のルートは梁川駅から南下して川俣町の川俣支店(111)を目指すもの。経由先の大半は広瀬川及びその支流に沿った谷底だし途中の伊達市月舘町から川俣までは歩いた経験がなかったので、慎重にならざるを得ない。吹雪に見舞われた1月13日のような仕儀になるのは、もう御免だ。
ところで話は変わるが、川俣町が旧梁川町や私が住んでいる桑折町と同じ伊達郡に属しているのには、長らく違和感があった。生活圏が全く異なるし、相互交流も殆どないからだ。
そもそも伊達郡は、今から千年以上前の10世紀半ばに、当時の信夫郡のうち伊達郷、靜戸(しずりべ)郷、鍬山(くわやま)郷が分離して成立した歴史を有している。伊達郷は阿武隈川西岸、靜戸郷は阿武隈川東岸かつ伊達市霊山町以北、鍬山郷は同じく阿武隈川東岸かつ伊達市月舘町以南を指すようだ。
成立当時の伊達郡の中心地が、郡名と同じ名を持ち域内に桑折、上郡、下郡(いずれも現・桑折町)と郡衙(ぐんが)の存在を連想させる地名が現存している伊達郷にあったことは容易に推察できる。であるならば、鍬山郷よりも距離的に近い福島市瀬上町や飯坂町あたりを伊達郡編入した方が合理的だったではないかとも素人の私は思うのだが、瀬上や飯坂は信夫山以北摺上川以南を範囲とする岑越(みねこし)郷の一部であり、また信夫郡郡衙が伊達郷よりも至近の福島市役所近辺にあったとされるため、分割はかなわなかったようだ。
信夫郡が分割された背景には律令制の租庸調の課税を整備する必要性から各郡の人口をほぼ均一にする目的があったとのことなので、人口調整のために鍬山郷が半ば強引な形で伊達郡編入されたのかもしれない。
が、何しろ千年以上前の話。現在の市町村合併のように行政区域の分合にかかる詳細な資料が残されている訳ではないから、単なる人口調整ではなかった可能性も、もちろん否定はできない。例えば、古代には梁川から川俣にかけて流れている広瀬川を軸として交通網、交流圏が整備されており、一つの郡にまとまったのは自然な流れであった可能性。梁川を含む靜戸郷の「靜戸」の名は古代においては特殊技能であった機織技術を持った集団「倭文部(しとりべ)」にも通じるというし、川俣を含む鍬山郷は6世紀後半に在位した崇峻天皇の妃であり養蚕・機織の祖とも伝えられる小手姫に関する伝説の残る地域である。同じ川の上流と下流で似たようなキーワードが残っているので、古代から両地域は関連性が深かったかもしれない。
そもそも、わが国における養蚕・機織業は、製糸技術が劣りまた鎖国により輸出が大幅に制限されていた江戸時代まではさほど盛んではなかったそうである。なのに伊達郡ではほぼ全域にわたって江戸時代においても養蚕・機織が盛んだった歴史を有している。梁川と川俣の中間に位置し広瀬川支流の小国川に接している伊達市霊山町掛田から、18世紀後半にわが国最古の養蚕技術書とされる「養蚕茶話記」を著わした佐藤友信を輩出しているぐらいなのだ。やはり、広瀬川を軸とした人やモノの動きが古来からあったのだろうかと推察してしまう。
散歩の方は、天気が良ければ2月6日の土曜日に仕切り直しを考えている。その際、梁川と川俣とを結ぶ「何か」を見つけられればいいな、と思う。