2010年1月30日 ~東邦銀行支店巡礼③ 保原支店・梁川支店~

仕切り直しの散歩は、土曜日となってしまった。窓口が開いていない日に歩くのは初めてとなる。
できれば平日に行きたかったなと思うが、ATMが開いていることには感謝せねばなるまい。ATMの土日祝日営業の歴史は詳しく知らないが、少なくとも1990年代までは、営業していたとしても稼働時間は今より短かったはずだ。現在は、東邦銀行に関して言えば、土曜日は9時から19時までの営業。平日が8時45分から19時までの営業だから、開店時間がわずか15分違うにすぎない。
従って、今日の散歩は、最初に訪れる伊達市の旧保原町にある保原支店(109)のATM開始時間ジャストに訪れることができるようにスケジュールを組んでみた。遠回りなルートになるが、桑折町の自宅を出発して1時間後に伊達市の旧伊達町、2時間後に保原に到着していると見込み、午前7時に自宅を出発した次第。なお、旧伊達町を経由した理由は、東邦銀行が所在しないもののそれなりの規模を誇る町である旧伊達町を外すのがしのびなかったことと、町内にある長岡分岐点から保原支店、そして終点に予定している梁川支店(110)と、1971年に廃止された福島交通軌道線の跡を辿ってみたかったからである。
自宅から奥州街道を南下し、旧伊達町へ。何度も歩いた道だから、特に新たな発見はない。それでも、国道399号線との交差点を渡ると、ある種の感慨を覚えた。ここから先福島までの奥州街道上には、かつて路面電車が走っていたのだ、と。
が、長岡分岐点の前に来てみても往時をしのぶ看板一つ建てられていないのは、若干気になった。1990年代半ば以降鉄道廃線跡めぐりが旅行の一ジャンルとして認識されるようになり、福島県内の例で言えば、1968年まで猪苗代町内を走り福島交通軌道線と同様に道路上を走る区間が多かった日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の跡地など各駅ごとに駅名標を模した案内板が掲げられているのだが、福島交通軌道線に関してはこの種の整備は一切行われていない。福島市伊達市には、重い腰を上げて欲しいところだ。
それでも沿線の所々に遺構は残っていたりするもので、旧伊達町に関して言えば、長岡分岐点から国道4号線をオーバークロスした先に軌道の架線柱の片割れを見ることができるし、阿武隈川に架かりかつては軌道と人車の併用橋だった旧伊達橋も、歩道橋として健在だ。
なお、伊達橋を渡り終えたところで、出発から57分が経過。ここまでは予定していたペース配分にほぼ沿った形である。
伊達橋の東側の軌道は、現在国道399号線となっている。沿道は、住宅が疎になり、果樹園が大部分を占めている。そんな中を東西方向に一直線に通り抜けているのであるが、ここで一つの疑問が頭をもたげてくる。700メートルほど北側には県道保原桑折線に沿って伏黒の集落が展開しているのに、国道はともかく、軌道はどうしてそちらを通っていないのだろうか、と。現時点においても旧伊達町と保原とを結ぶバス路線は国道経由と保原桑折線経由(現地では上ヶ戸(あがと)経由と表記)の二つがあり、しかも平日の運行本数は、前者が7.5往復なのに対し、後者は9往復と上回っているのだ。後述するが、保原~梁川間の軌道は、最短距離の国道349号線経由ではなくわざわざ北側に遠回りしてまで伊達市梁川町の粟野に立ち寄っている。伏黒も粟野も1950年代半ばに行われた町村合併促進法に伴う大合併までは行政村の中心地だったのに、どうしてこのような対応の違いが出てくるのだろう。
そんな疑問を抱きながらしばらく歩いていると、左手から保原桑折線が近づいてきた。もう保原の中心部に差し掛かっているが、時計を見るとまだ8時半。ありゃりゃ。予定よりもかなり早く到着してしまった。
寒空の中支店のシャッター前で待っているのもしんどいので、国道を直進した先にある陣屋通りを散策してみた。幅員25メートル、車道より歩道の方が広く、伊達地方では数少ない「街路」と呼べる道だ。左右を見回しながら歩いていると、「江戸川乱歩疎開の地」と書かれ書籍を模した形をした記念碑が建てられているのを見つける。第二次世界大戦時、乱歩が保原に疎開していたのは一応知っていた。乱歩ほどの作家になると疎開したこともこうして取り上げられるのかなと思うが、逆説的に言えば、乱歩の疎開を取り上げざるを得ないのは、保原に観光、歴史、文化関係の財産が枯渇していることを意味している。その証拠に、陣屋通りの名前の由来になった保原陣屋の跡地を探してみても、案内板すら見つからない。わずかに、陣屋に植えられていたとされる欅と黒松の木が残るのみである。
陣屋通りから1キロほど東にある保原総合公園内に移築され保原の歴史遺産として取り上げられる機会が多い旧亀岡家住宅も元々は桑折町伊達崎(だんざき)にあった建物。むしろ、同公園内にある屋根つきの立派な土俵の方が、保原らしさが出ているように思う。保原は、栃若時代に技能派力士として活躍した元関脇・信夫山の出身地。その点はもう少しアピールされてもいいように思うが、活躍したのがなにしろ半世紀以上前のことであり、所属していた小野川部屋は消滅し当人も1977年に逝去、加えて四股名福島市の山名である信夫山だから、気勢が上がりにくい面はあるのかもしれない。せめて部屋さえ残っていれば、玉ノ井部屋が先代親方(元関脇栃東)の出身地である相馬市で夏合宿を行っているような交流が期待できたのであるが。
そんなことを夢想しながら陣屋通りをブラブラ歩いていたら、もう8時55分になっていた。支店へと急ぐと、駐車場にATM利用者とおぼしきクルマが停まっていた。数えてみたら10台近くはあっただろうか。が、支店の玄関先には誰もいなかったので、横入りをしてしまったかなとの後ろめたさは多少あったものの、自動ドアの前に陣取る。
9時。自動ドアの前に立ちはだかっていたシャッターが開く。私の後にはいつの間にか列ができており、彼らに押し出されるような形でATMへ。いつものように1,000円を入金。通帳末尾の端末記号・店番欄の記載は「1109」桑折支店(108)に引き続いて端末記号が数字だ。
支店を出、梁川へと軌道跡に沿って歩を進める。先述の通り、軌道は保原から梁川までの最短経路である国道349号線ではなく、梁川の真西に位置する粟野を経由する。保原市街の北端に位置する十二丁目の交差点で左折して県道保原伊達崎桑折線に入り、交差点から300メートルほど先にある伊達市立桃陵中学校の敷地に差し掛かったところで今度は右折。市街から離れていないのに、周囲は早くも田園風景。本当にこんな場所を軌道が通っていたのか疑問に思うぐらいだ。実際この辺りの人口は少ないようで、路線バスも保原から中学校至近の猫川までしか通じていない。
だから、後方を振り返ると、中学校の校舎が遠くからでもよく見える。伊達地方の中学校の校舎は我も我もと競うように過度に立派な外観が目立つのだが、大きな時計が掲げられた塔屋を有しステンドグラスが大きく壁面を飾っている桃陵中学校も、その例に漏れない。私が学んだ中学校は何の変哲もない鉄筋コンクリートの校舎だったので、羨ましく思う。
ほとんどカーブがない道をしばらく歩くと、旧梁川町に入る。この辺りに向川原という名の停留所があったはずだが、案内板がないので跡地がどこなのだかさっぱりわからない。
更に歩くと、主要地方道浪江国見線にぶつかる。軌道はこの道路の上を梁川へと真東に向かっていた。バス路線は廃止されたものの、交通量は結構多い。歩道がなく路肩のスペースも狭いので、クルマが脇を通るたびに肝を冷やす。
粟野の集落に入る。ここを散歩で訪れるのは2006年10月29日以来だから、実に3年3ヶ月ぶり。でも、その時と比べて特段の変化は見られないように感じる。もちろん、軌道がわざわざ粟野を経由した理由も、わかるはずがない。今も残る旧粟野郵便局のモダンな建物を目にし、昔の粟野はそれなりに栄えた地域だったのだろうかと想像を巡らせるほかない。
国道349号線のバイパスを過ぎると、梁川の市街地。まずは、現在はコープマートとなっている梁川駅の跡地まで歩く。時計を確認すると10時を少し過ぎたところ。コープマートも開店しており、周辺には買い物客の姿がチラホラ見られる。軌道が現役だった頃も、こんな感じで人通りがあったのだろうか。
コープマートから駅前広場を連想させる幅員の広い道路を歩き、梁川のメインストリートである広瀬大通りに出る。梁川支店はこの通りを北上し、市街地の中央を流れる広瀬川を渡った先にある。
いつも思うことだが、梁川には新しい建物が多い。それは1986年8月にこの地を襲った水害を克服するとともに、1988年7月に住民長年の悲願であった阿武隈急行の開通を契機に新しい街へと生まれ変わろうとする心意気による部分が大きいとは思う。が、広瀬川の中州に至るまでガッチリと護岸工事がなされている姿などを目にすると、いささかやりすぎの感も抱いてしまう。
それどころか、なまじ街並みをリニューアルしてしまったが故に、梁川は却って「時代おくれ」になってしまった感すらある。歴史的建築物や街並みが世間の注目を集め、飯坂や桑折でこれに沿った動きが活発化している昨今、伊達氏や松前氏が拠る城下町であった梁川においても本来ならばそうした動きがあってしかるべきなのだが、もうそれは不可能に近い注文なのである。せめて城跡でも公園として整備して欲しいと思うが、この部分でも間が悪く、城跡は幼小中高各種学校の校舎およびグラウンドになってしまっている状況。辛うじて本丸跡にあった中世庭園・心字の池が小学校の校庭に復元されているが、場所が校庭とあっては一般人に広く公開する訳にもいくまい。
数少ない救いは、城下町の北端にあたる大町や上町(うわまち)に蔵造りの建物がいくつか残っていることぐらいか。あと、福島市民家園に移築された和風建築の芝居小屋・旧広瀬座を呼び戻すのは無理としても、かつて梁川に根付いていた大衆娯楽文化を伝承していければ面白いなとは思う。今月から福島市のふれあい歴史館で「旧広瀬座-明治・大正・昭和の大衆娯楽と歩んだ歴史」と銘打った特別展が3月21日までの日程で開催されているが、こうしたイベントは福島市ではなく、梁川が率先的に手を挙げて行うようにすべきではなかろうか。
梁川出身の彫刻家・太田良平の作品が歩道に並ぶ橋で広瀬川を渡り、ヨークベニマル梁川店の斜向かいにある梁川支店に到着。ATMで1,000円を入金すると、通帳末尾の端末記号・店番欄の記載は「2110」。端末機号の数字表記は3支店連続であるが「2」は初めてであった。
さて、今日の目的はこれで終了。梁川支店最寄りの駅は700メートルほど北に位置する阿武隈急行やながわ希望の森公園前駅であるが、次回の目的地が南方20キロほどの位置にある川俣支店(111)ということもあり、1キロほど南にある梁川駅まで行くことにした。ここから福島方面への電車に乗って卸町まで行き、ここから東北本線東福島駅まで歩く予定だ。乗るべき電車は10時31分に梁川駅を発車する。駅前に広がる多少くたびれた新興住宅地の中を、時計に目をやりながら早足で歩いた。