2010年3月26日 ~北海道家族旅行記②~

閉園直前の3時15分に発つバスで、旭山動物園を出る。慌ただしく訪れ、そして去るだけの旭川の街。バスに乗るだけだから歩行者天国になっている平和通の買物公園を見ることすらできない。せめて車窓だけでも目に焼き付けておきたいと思ったのだが、車内が満員状態だったせいもあり、すっかり寝入ってしまった。妻子も同じであったらしい。旭川の駅前に戻った時は、家族全員半ばグロッキーな状態であった。
が、今日の行程はまだまだ続く。この後札幌に戻り、私の旧友を交えての夕食がある。休息はその後のことだ。なお、今日の宿は札幌市内屈指の老舗ホテルである札幌グランドホテル。温泉旅館に泊まった経験はある子供達だが、ホテルは初めて。満足してくれるだろうか。
旭川駅からは、4時30分発のスーパーカムイ42号に乗る。旭川に向かう道中や旭山動物園内で降っていた雪はすっかり止んでいて、車窓の景色を楽しむことができた。
気になるのはやっぱり街の風景。渡道するたびに思うのだが、北海道の街は内地の街に比べて人口以上に規模が大きい気がする。人口3万人を割り込んでいる深川、砂川、美唄は5万都市の風格が感じられるし、同じく4万人台にとどまる滝川も車窓からの景色に限って言えば米沢や石巻と遜色ない雰囲気だ。
この理由は、いくつか考えられよう。まず挙げられるのが、北海道では人口の大半が中心市街地に集中していることだろうか。簡単に言うと、同じ人口3万人でも内地だと中心市街地と郊外とで人口が半分に分けられるという都市がザラにあるのに対し、北海道では人口の8割以上が中心市街地に集中しているケースが少なくないのである。また、車窓を見ていて思ったのが、北海道の都市では高層の集合住宅がかなりの確率で見られるのも、街の規模が大きく見える理由の一つでもあるだろう。
そんな感じで内地との差異を噛みしめながら車窓を堪能しているうちに、岩見沢を過ぎ、列車は札幌駅の高架ホームへと滑りこんだ。定刻通り、5時50分の到着。札幌駅からは、まず、宿泊先の札幌グランドホテルまで行くことになる。ホテルのロビーでと約束した旧友との待ち合わせ時刻は6時45分。それまでゆっくりしていよう。
駅前通りを南へまっすぐ行けばグランドホテルまでたどり着くのはわかっていたのだが、交差点をいちいち渡るのが嫌なので、駅からグランドホテルの直前まで延びている地下道を通ることにした。なお、この地下道はさらに南の大通まで延伸工事が進められており、2010年度中には完成予定という。
地下道を歩いていて、感心したこととがっかりしたことが一つずつあった。まず感心したことは、他の大都市では普通に目にするホームレスの姿が殆ど見られなかったこと。もっともこれは、札幌独自の事情もあるようだ。後日耳にしたところによると、凍死を恐れる札幌のホームレスは、日中に地下道などで休み、夜は暖を求めて何時間でも歩き続けるのだという。だから私が目にしたのは、ホームレスが夜の徘徊へと去った後の地下道だったのかもしれない。
そしてがっかりしたことは、地上に出る通路の殆どに、エスカレーターやエレベーターが設置されていなかったことである。地下道が完成したのが恐らく札幌市営地下鉄開業とほぼ同時の1970年代初頭のことだから、バリアフリーなんて概念がなかった同時のことを思えばこれらの設備が不足しているのは仕方ない部分があるにせよ、リニューアルの機会はいくらでもあったはず。お陰で重い荷物を運びながら長い階段を登らねばならなかったから、尚更そう思う。子供達も、若干疲れ気味である。
そう、この「70年代初頭に建てられた建造物が多い」というのは、実は13年前に札幌を訪れた時に私が抱いた印象でもあった。従って、巷間伝えられているイメージと異なり、札幌には「老朽化が進みつつある街」とのイメージを抱いていたのだが、一旦地上に出てみると、それもまた私の頭の中で造られた負のイメージに過ぎないことに気づかされた。
日没後の薄暮の中で見た札幌の街は、スクラップ&ビルドの真っ最中。その象徴が、札幌駅に隣接して建つJRタワーであり、駅前通りと北三条との角に建つ日本生命札幌ビルと言えよう。いずれも仰ぎ見るような高さである。
日本生命札幌ビルのすぐ南にあるはずの札幌グランドホテルもまた地上17階建ての高層建築だと聞いていたのだが、周囲のビルがいずれも高いので、訪れてみるとさほどの高層建築には見えなかった。が、老舗ホテルだけあってサービスは天下一品。フロントでにこやかに迎えられると、北二条に面した5階の部屋に通された。カーテンを開けると、向いのオフィスビルではまだ忙しそうに仕事に打ち込むサラリーマンの姿。そう言えば、今日は金曜日であった。
初めてのホテル宿泊となった子供達はというと、上の子はまたもやDSでベッドからトイレに至るまで部屋中を記念撮影。下の子は旭山動物園での体験がよほど印象に残ったようで、持参してきた絵日記帳にいろいろと書きこんでいた。
妻と私はというと、ここに着くまで気が張りっぱなしだったこともあってか、すっかりリラックス。ベッドに足を投げ出しながら漫然と地元のニュースなど観ていた。旅先独自のテレビ番組を観るのも旅行の楽しみの一つであるが、途中で子供達にチャンネルを変えられてしまい、全国どこでも放送内容が変わらないNHK教育なぞ観る羽目になってしまった。マイペースな子供たちである。
そんな感じで30分ほどまったりしていると、携帯に着信があった。
ロビーで待ってるよという旧友からのメッセージ。テレビタイムは中断し、エレベーターでロビーまで一目散。
3年ぶりにあった旧友は、その時に比べると少し痩せただろうか。逆に私は太ってしまったので、申し訳ない気持ちになる。「こんばんは」。妻子も挨拶を交わす。妻は何度か面識があるものの、子供達にとっては初めての対面。ちゃんと挨拶できるかなとの不安があったが、難なくクリアし安堵する。
ジンギスカンの店は、日本生命ビルの地下にあった。送別会のシーズンでもあり店内は賑わっていたが、旧友が予約してくれたおかげで個室へと通される。まずは、ビールで再会の乾杯。仕事帰りでもある旧友にとっては本日初めてのビールだが、実はこの時点で、私は缶ビールを5本ほど空けていた。そのせいで、少し呂律が回っていなかったかもしれない。
でも、そんなことは、私にとっても旧友にとってもどうでもよいことだったと思う。いみじくも、「○○さんはお父さんとおともだちだったんですか?」という上の子の意地悪な質問に、旧友はこう答えていた。
「お父さんとはね、学生時代に吐くまで飲むような仲だったんだよ」
確かにそうだった。旧友の中に残る私は、常に酔っ払っている姿だったかもしれない。
その後も会話は進んだが、食も進む。ラム肉は癖が強いイメージがあったが、この店のジンギスカンにはそれがない。子供達もペロリと食べている。ただ、妻だけが、なかなか食が進まない。旧友も気を遣って「奥さん、食べてる?」と勧めていたぐらいだが、どうやら旭山動物園で食べたラーメンがまだ胃の中に残っていたらしい。
私も普通に食べていたのだが、それ以上に、酒の方に手が出てしまう。ビールどころか、日本酒までに手を出してしまった。そんな様子を、上の子がまたもや、持参してきたDSで写真撮影している。脇で見ていた下の子も、後日口にしていた。「おとうさんも、○○さんも、なんだかうれしそうだね」
個人的には、旧友が「福島弁って久しぶりに聞くなあ。懐かしいなあ」と口にしていたのが、強く印象に残った。私は福島弁を話せないのだが、妻子はバリバリの福島弁話者。室蘭育ちの生粋の道産子で学生時代の4年間だけ福島で暮したに過ぎない旧友にとっては、「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」と詠んだ石川啄木にも似た心境だったのかもしれない。
夕食は、1時間ちょっとで終了。でも、旧友と私にとっては短い再会の時間であり、飲み足りなくもあった。
グランドホテルの前まで一緒に歩いた後、旧友が妻にこう言う。
「奥さん、ちょっとダンナ借りていくから」
そして私に、
「おい、ちょっと付き合え」
妻が二つ返事でOKしてくれたのをこれ幸いに、旧友と私は夜の街へと消えていった。行き先はもちろん、ススキノだ。その間、妻子はホテルの部屋のユニットバスに入り、早々と就寝していたらしい。
一方、ススキノにいた我々は、まずはすすきの駅近くの立ち飲み屋に入り2杯ほど飲んだ後、裏通りにある店で飲み直した。金曜日の夜とあってススキノの街は相当な賑わいであったが、旧友にとっては物足りなかったようで「昔に比べてススキノも人通りが減ったよ。不景気だもんな」とこぼしていた。
こんな具合に、会話の多くは、旧友の愚痴にも似たつぶやきが占めていたように思う。言葉の端々に父親やサラリーマンとしての彼の姿が垣間見えたのに、時代の流れを感じる。そう。我々は38歳。学生時代の日々はもう戻ってこない。
二人の飲み会は何時間続いただろう。飲み過ぎて記憶がなくなりかけていた。旧友にグランドホテルの前まで送ってもらい、携帯で妻を呼び出して部屋の鍵を開けてもらったことは覚えている。後日発信履歴を確認すると、11時半を過ぎていたようだ。