2010年5月19日 ~「東邦銀行五十年史」を斜め読み~

昨日に引き続き、今日も休日であった。
が、散歩に出掛ける予定はない。正直に告白してしまうと「金欠」なのだ。自宅から散歩先までの往復運賃にATMに入金するお金、あと散歩先で調達する飲料代。これらを合わせると、1回の散歩につき平均して5,000円程度は吹っ飛んでしまう。しがないサラリーマンの小遣いでは、おのずと限界が生じてしまうのだ。
でも、日がな一日自宅で悶々としているのももったいない。そこで、伊達市箱崎にある伊達市立図書館まで行き、読書しながら暇つぶしをすることにした。
読んでいたのは、1992年に刊行された「東邦銀行五十年史」(以下「五十年史」と省略する)。福島県を代表する地銀だし社史の類は当然刊行しているだろうと踏んでいたのだが、やはりあったか。本来ならば支店巡礼を始める前に読んでおくべき本だと思うが、逆にある程度の支店を訪問したからこそ理解できる箇所もあったので、どのタイミングで読めば良かったのかはわからない。
また、「五十年史」を読んで、それまで東邦銀行の支店網に対して抱いていた疑問が、ある程度氷解したような気がした。以下、そのいくつかについて、簡単に紹介してみよう。
 
⑴店舗コード「102」の謎
今現在私は東邦銀行の店舗コード順に各支店を歩いて訪れるというバカな真似をやっている訳だが、店舗の廃止や統合などの事情に伴い店舗コードの中にはいくつかの欠番があり、そのコードを有する支店がどこだったのか分からずじまいだった箇所もいくつかある。
代表的なのが、店舗コード「102」。前後の店舗コードを有する支店が本店(101)と県庁支店(103)なので、恐らく福島市内にあった店舗であろうと一応の推察はしていた。
「五十年史」には各支店の店舗コードこそ掲載されていなかったものの、仔細にわたって読んでみると、どうやら、店舗コード「102」を有していた店舗は、1969年まで福島市大町に所在していた「福島支店」であったらしい。
東邦銀行福島市大町に本店を有するはずなのに、どうして同じ大町に福島支店があったのか、疑問を抱く方もいるかと思うが、この支店が設立された背景については、そもそも東邦銀行がどのような経緯をたどって設立された銀行なのかを、知る必要がある。
東邦銀行は、第二次大戦中の1941年に、当時の金融資本統制(いわゆる一県一行主義)に伴い、郡山商業銀行、会津銀行、白河瀬谷銀行が合併して設立された銀行である。設立当初の本店は、郡山商業銀行の本拠地であった郡山市に置かれた。その後福島県内に所在していた中小の銀行を吸収合併して県内一円に店舗網を有する銀行へと拡大していった訳だが、実は福島支店は、その過程で1944年に吸収された福島貯蓄銀行の本店だった店舗なのである。
戦後になって、日本銀行の所在地かつ県庁所在地である福島市に本店を移転しようという話が持ち上がり1946年の暮れに実現するのであるが、どうした経緯か、本店移転後も福島支店はそのまま残り、20年以上にわたって営業を続けた次第である。
 
⑵郡山支店と郡山中町支店
今、東邦銀行の本店は設立当初は郡山市にあり、戦後になってから福島市に移転したと書いたが、設立当初の本店は、実は郡山中町支店(201)の場所にあった。
風格のある洋風建築であり確かにかつての本店にふさわしい雰囲気は有していると思うが、実物を見たことがある方ならその小ささにも気付くはずで、「どうしてこんな建物が本店だったの?」と思われる向きもあるかもしれない。
実際問題、この店舗は本店移転後は郡山支店としてしばらく営業していたのだが、基幹店舗としては手狭なことがネックとなったため、1972年になって虎丸町に郡山支店が新設されたという経緯を有している。なお、郡山中町支店が現在の名称に改称されたのは、その前年の1971年のことであった。
こんな具合に本店から基幹店舗、更には一支店へと転落の道をたどっていった郡山中町支店であるが、店舗コードの面から言うと、面白い特徴が残っていたりする。東邦銀行の基幹店舗の店舗コードは、本店が「101」なのをはじめ、白河(301)、会津(401)、原町(501)、平(601)と、揃って下二桁が「01」なのが特徴なのだが、郡山ブロックに関しては、かつて郡山支店であった郡山中町支店が「201」であり、後発の郡山支店が「200」。奇妙な部分に残った郡山中町支店の矜持と言えなくもないか。
 
⑶浅川支店の廃止と復活
ところで、現在の郡山支店が開設された際に、ある支店が閉店に追い込まれている。というのも、当時の大蔵省では「半径500メートル以内に同業者が所在する地域での金融機関の新規出店は『出店機関の既存店舗の移転』という形でなければ認めない」という方針をとっていたからである。旧来の中心街から若干離れていたものの、郡山支店の位置はその方針が適用されるものであった。
犠牲になったのは、郡山から遠く離れた浅川町にあった浅川支店。地元の了解を取り付けて、1971年に閉店するに至っている。
が、どういう訳か、閉店から16年も経った1987年になって、浅川支店は復活を遂げていたりする。1970年代以降においてこの地域の人口が爆発的に増加したという訳ではないし、浅川町の10キロ圏内には石川(303)、棚倉(305)の両支店がありその点でも支店を新設する特段の事情がなかったにも関わらず。
「五十年史」では浅川支店が復活した事情については触れていないが、個人的には、地元で復帰熱が高かったか、福島空港の建設、首都機能移転といった建設バブルに備えてのものであったかの、いずれかではないかと推察している。
なお、店舗コード面から浅川支店を見ると、現支店の店舗コードは「309」だが、旧支店はどうやら、現在欠番となっている「304」を使用していたようだ。
 
福島市郡山市における支店の新設と改廃
「五十年史」の巻末近くには、刊行時点での各支店、出張所の沿革及び一覧が記載されている。もう20年近くも前のことだから現在の店舗網とは異なる個所もいくつか散見される。
が、福島市内の支店に関して言えば、大森支店(128)が方木田支店(127)の出張所であったこととローン業務に特化したローンプラザ福島支店(133)が未開業であったことを除けば、新規出店の事例が一つもなかった。2000年代に入ってから万世町支店(104)、泉支店清水出張所(126)が閉店していることを思うと、福島市の停滞を目の当たりにしたようで、ちょっと淋しい。
あと、不思議なことに、「五十年史」には、国見町にあった国見支店(132)の名前がなかったように思う。国見支店は2002年に閉店しているから、刊行直後に開店していたと仮定しても営業期間は10年間。これほど短命に終わってしまった支店もないのではなかろうか。
逆に郡山市についてみると、こちらは新さくら通り(219)、郡山東(222)、富田(228)、郡山総合卸市場(229)と現存している支店が四つほど「五十年史」に掲載されていなかった反面、亀田支店や昭和支店など、東邦銀行のサイト内における「店舗統合のお知らせ」のページ(URL http://www.tohobank.co.jp/common/html/branch_info06.html 2000年以降における支店の統廃合を紹介している)でも存在を確認できない支店が「五十年史」に掲載されていた。なお、サイトによると、2000年代に入ってからも郡山支店池ノ台出張所(217)、菜根支店開成出張所(221)、長者支店(216)、富久山支店(210)の閉店が確認できるので、ここ十数年で郡山は支店のスクラップ&ビルドが相当進んだということになる。
また、この流れとは別に、郡山北支店(220)が、「五十年史」では「富久山支店久保田出張所」という名前で掲載されていた。郡山北支店は2003年に富久山支店が閉店したのに伴いその継承店舗となっているから、ちょっとした下剋上が起こったようで面白い。なお、富久山支店の閉店は、隣接していた卸売市場が2002年に郡山南インターチェンジ付近に移転した影響によるものと考えられるため、新市場に併設されている郡山総合卸市場支店もまた、実質的な継承店舗と言えるかもしれない。