2011年3月12日 ~震災翌日 仙台から桑折まで歩く⑤~

ここでふと、「なんてバカなことをしてしまったのだろう!」と、後悔の念が湧いてくる。
白石からタクシーで桑折に向かうという手段があったではないか、と。
白石駅前から我が家周辺までは片道6,000円程度。帰宅が遅くなった際に何度か利用したことがあるから、このことは知っていた。手持ちの現金で十分足りる金額だ。
しかし、タクシー会社から見れば今後ガソリンが欠乏するのが目に見えているところをわざわざ長距離の客を乗せてくれるかどうかは微妙なところだろうし、頼んでも応えてくれたかどうかはわからない。やはり、歩くしかない。そう考え直し、国道4号線の下り坂に臨む。
先にも書いたが、ヘッドライトとテールランプ。これらが真っ暗闇の中で歩くための唯一の光明となる。ただしヘッドライトは眩しすぎて、至近距離で直視すると目が順応しない。ある程度離れた地点を走っているクルマのライトを頼りに安全な範囲を確認し、暗くなったらその範囲だけ前進する。その繰り返しとなる。
それでもミスはあるもので、一度、片足を側溝に突っ込んでしまった。右手を負傷し、出血もした。が、不思議と痛みは感じない。寒さ故か、それとも集中力が勝っていたのか。缶チューハイが効き始めており、多少ハイテンションになっていたのも、プラスに働いたかもしれない。
坂を下りきり、国見町内唯一の中学校である県北中学校の前を通過すると、国見町の中心部。だがここでも電気は復旧しておらず、クルマの灯りを頼りにして前進せざるを得ない状況には変わりない。
驚いたのは、沿道右手にあるはずの国見町役場ですら、真っ暗だったことだ。土曜日とはいえ職員は昼夜を問わず総出で復旧作業に励んでいるだろうし、せめて非常用の電灯ぐらい点いていたもおかしくないと思ったのだが… 後で聞いた話だと、役場庁舎そのものが被災して使用不可能な状態になってしまったそうだ。その話を聞いて納得したが、現地を通過した時点では国見町は何と冷たいお役所なんだと誤解してしまった次第。
結局、国見町内で非常用電灯が点いていたのは、公立藤田総合病院ぐらいのものであった。さすがにここは、常時電気が通じてなければ機能しない。病院の敷地を過ぎると、いよいよ我が桑折町へと入る。
桑折町内の国道4号線では、現在4車線への拡張工事が進められている。だから歩道がきちんと確保されているかどうか不安な面はあったのだが、それは杞憂であった。震災以前からそのような措置が取られていたのか、歩道の領域には非常用のランプが灯っており、比較的安全に通行することができた。この点は助かった。
そんな路面状況下を3キロほど南下すると、桑折町の中心部へと入る。私の自宅は桑折駅のすぐそば。付近の道路は一部で陥没やブロック塀の損壊などがあったようだが通行には特段の支障のないレベルであった。それでも暗闇の中どんな障害があるか把握ができないので、ソロリソロリと歩きながら、自宅へと進んだ。
玄関先に到着。ガキを開け、中へと入る。妻子は実家に避難したから、今は誰もいない。自宅でありながら自宅でないような雰囲気だ。
電気のスイッチをつけても、ウンともスンとも言わない。辛うじてバッテリーを搭載したパソコンだけが反応したが、ネットやメールも当然できない。灯代わりに画面を点けるのみである。画面の右下に表示された時刻を確認すると「20:13」との表示。仙台を出てから14時間が経過していた。
ここから妻の実家まで歩くこともできたと思うが、さすがに疲れた。訪問は明日に回すことにして、今日はここで寝ることにしよう。しかし、この暗闇の中では、布団を敷くのも着替えるのも覚束ない。歩いてきた服装そのままに、リビングにあったコタツに潜って、やり過ごすことにした。
昨日の五橋中学校に比べるとかなりマシなロケーションではあったが、寝づらいことには変わりない。ちょっと眠っては目を覚ますの繰り返し。それでも自宅で寝れるだけ御の字だと、自分に言い聞かせる他はなかった。