2011年5月14日 ~白石へ行ってきた~

先週に米沢市への外出を夢想したばかりであるが、今日はその予行演習とばかりに、白石市まで家族で出掛けることにした。白石城址の益岡公園で、青空の下思いっきり遊んで来ようと思い、お昼前に自宅を出た。
移動手段はクルマ。折からの強風で電車の運行状況が不安定になっていたせいだが、福島ナンバーを県外に晒すことに関しては、若干の不安がなくもなかった。結論から言うとクルマに悪戯されるなどの被害は受けなかったのだが、変な話、在日韓国・朝鮮人の気持ちが多少理解できた気もした。同列に論じるには多少の無理があるかもしれないが、出自を晒してしまうことへの恐怖感は共通するかと思うのだ。
その昔、横浜市日吉に住んでいた小学3年の頃のこと、クラスメートに在日の友人がいたことを思い出す。通名を使用していたので普段はそれとわからない。だからカミングアウトされた時には「お前は友達だから本当のことを言うけど、このことは絶対に内緒な」と、強く念を押された記憶がある。小学3年と言えば、今の我が子と同年代。その頃既に出自を隠さなければならないという意識を植え付けられていたのかと思うと、胸が締め付けられる。風評被害の表現でひとくくりにされがちな福島県民への差別的行為も早期に収まることを強く希望したい。
そんな恐怖感も相俟って、昼食は国道沿いにある幸楽苑をチョイス。幸楽苑の本社は郡山にあるから福島県民にとってはまさにオアシスというべきスポットだが、白石市民についても同様であるらしく、店内は家族連れを中心としたお客さんで超満員。席を確保するまで1時間近く待つ羽目になってしまった。いずれにせよ、福島県に本社を置く企業の店舗が大盛況なのは有難い。
国道の向かい側を見ると、真正面に見えるスーパー・マルホンカウボーイの店頭に「がんばろう宮城」「がんばろう福島」と並んで大書されている。東日本大震災福島第一原発事故の被災者へのエールでは被災県ないしは地方単位のセクト主義的な表現が目立つが、複数の地域を並列する表現をしてくれるのは嬉しい。福島県中通りの北端に位置する国見町伊達市梁川町五十沢(いさざわ)辺りの住民は白石市へ買い物に行くことが少なくないと聞くし、逆に白石市から福島市の学校へ通学する流れもあるから、白石市にとって福島県は、福島県民が思う以上に身近な存在なのだろうかと推察する。
ただし、白石市内の放射線量は毎時0.2マイクロシーベルト前後であり、原発事故から2ヶ月を経てもなお毎時1マイクロシーベルトを超える数値を記録する箇所が多い福島県中通りよりも著しく少ない。子供達も普通に外で遊んだり、自転車で疾走したりしている。その現実を把握しているから我々も白石まで遠征したのであるが、そんな風景を目にすると羨ましくも感じる。
昼食を終え、益岡公園に到着。我々家族にとっては1年4カ月ぶりの来訪となる。記憶に残っている風景を指差しては喜んでいる子供達。食い付きが良くて助かる。が、1995年に建てられた復元天守閣の壁面は大きく剥落し、震災の爪跡が大きく残っていた。
その天守閣の前に広がる芝生で、バドミントンやキャッチボールを楽しんだ。強風の影響でバドミントンはまともなラリーができずじまいだったのだが、それでも久しぶりの外遊びに、子供達は大はしゃぎであった。
しばらく遊んだ後、二の丸跡に移動。昨年天守閣に登った際程近い所に遊具の揃った公園があることを下の子が記憶しており、それを頼りに訪れたところ、二の丸跡だと初めて知った次第。遊具はブランコ、シーソー、滑り台とどこにでもありかつ就学前の子供のために設けられたとおぼしきものであったが、これらに対しても子供達は食い付きが良く、いろんな遊具を回っては喜んで遊んでいた。上の子からは、一緒にシーソーに乗ろうと誘われた。シーソーなんて乗ったのは何十年ぶりだろうか。妻や私もまた、子供達と一緒に童心に返って遊んだ。
益岡公園で遊んだ時間は都合1時間強といったところであろうか。遊びの内容そのものは単純極まりないものばかりであったが、子供達には良い発散になったようだ。やはり、子供達には外で思いっきり遊ぶことが必要だと痛感した次第だ。
しかし、それが思うに任せられないのが、福島県浜通り中通りの現状である。原発事故はいったいいつになったら収束するのだろうか? 遊び疲れて眠りこけている子供達を運んでの帰り道、ふとそんな思いに襲われ憂鬱になってしまうのであった。