2013年7月31日 ~日吉帰省(?)記 その1~

のっけから私事で恐縮だが、私は、四つの小学校に通った経験がある。
まず1978年に東京都国分寺市立第五小学校に入学し、2年後の1980年に横浜市立矢上小学校に転校するも、翌1981年には遠く離れた仙台市中野栄小学校に再び転校。ここで落ち着くかと思いきや更に翌年の1982年に同じ仙台市立の高砂小学校に3度目の転校となり、2年間通って卒業と相成った次第。 毎年のように転校するのは淋しくもあったけれど、一方で得難い体験をしたと今では思っている。
住んだことがある土地にはそれなりに愛着があるもので、入学した小学校のある国分寺市には1990年代に都合3回も足を運び、街の変貌を目の当たりにした。国分寺駅など、私が住んでいた頃は木造の駅舎だったのに、駅ビルとしてマルイが入居する大きな駅に変貌していたので、かなり驚いた記憶がある。
その一方で、二つ目の小学校である矢上小学校の所在する港北区日吉には、全く足を向けることがなかった。一応、1986年、中学3年の夏休みにちょっとだけ足を運ぶ機会があったものの、それっきりのご無沙汰…街の玄関口である東急東横線日吉駅も東急百貨店が入居する立派な駅に生まれ変わったという話こそ耳に入るものの、実物を拝むことは長らくなかった。
そこで、今回は満を持して、日吉を訪れてみようと考えた次第。もっとも、本来は新潟市を訪れるつもりで青春18きっぷを用意していたものの、数日来の豪雨の影響で列車の運行に支障が発生していたため、行き当たりばったりで訪問先をを変更しただけだったりするのだが…
 
桑折駅を5時41分に発つ東北本線の上り始発電車に乗り、黒磯駅宇都宮駅で乗り換えて、湘南新宿ライン経由で11時38分、武蔵小杉駅に到着。ここで東急東横線に乗り換えて二つ目の駅が、日吉。移動可能な列車が制約される青春18きっぷの旅とはいえ、片道6時間もかかるのだから、やっぱり遠い。
話に聞いていた通り、日吉駅は、百貨店を併設した立派な駅舎と変貌を遂げていた。私が住んでいた頃は平屋の駅舎だったと記憶しているから、まさに隔世の感がある。
駅の表玄関にあたる西口からは、浜銀通り、日吉中央通り、普通部通りなど、商店街が放射状に延びている。これは昔と変わらない。ただ、沿道の商店で記憶に残っているものは、皆無。この界隈が矢上小学校の学区外(日吉台小学校の学区)ということもあるのだが、日吉の商店街は駅の東口に展開している慶應義塾大学日吉キャンパスの学生街としての性格を有しており、当時小学生だった私にとって縁のない地域でもあった。唯一残っている記憶は、社会科の授業で街探検的的なことをしたぐらいであろうか。私はその時、確か浜銀通りを歩いたはずだ。
ちなみに、浜銀通りの名前は、沿道に横浜銀行が店舗を構えていることに由来し、日吉中央通りは駅前から延びている放射状の街路の中央にあること、普通部通りは慶應義塾大学の付属中学校である慶應義塾普通部へと至る通りであることが、それぞれの命名由来となっている。
 
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上小学校の学区は、日吉駅の東側、現在の住所で言うと日吉三~七丁目である。後述するが、私が住んでいたのは、七丁目。従って、私の記憶に刻まれている日吉駅もまた、裏口となる東口ということになる。駅前には東横線の線路に沿って綱島街道(主要地方道東京丸子横浜線)が通り、綱島街道の向かい側には慶應義塾大学のキャンパスがデンと構えているだけで、商店街は全くない。スッキリし過ぎていてやや殺風景と言えなくもない。
だから、東急百貨店の存在が逆に浮いてしまってたりもするのだが、周辺にはバスターミナルやら2008年に開業した横浜市地下鉄グリーンラインの駅が設けられていたりと、それなりに活況を呈しているようだ。
 
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こちらが、慶應義塾大学の入口。 大きなイチョウ並木が続き、緑多き構内である。学部によって1年次のみか1~2年次かは異なるが、文、医、薬、経済、法、商、理工の各学部の学生が学んでいる、また、慶應義塾高校が、キャンパス内に併設されている。
私が住んでいた頃は、キャンパス内を通り抜けて日吉駅へと向かうことが少なからずあった。クルマの通行がないから安全だし、それより何より近道だ。が、今は入口で警備員が険しい表情で仁王立ちしていて、容易に立ち入れそうにない雰囲気。大学生活なんてとうの昔に終えてしまった…というか、慶應なんてどんなに足掻いても合格ラインに達することのできなかった負い目もあり、構内に入るのは、早々に諦めた。
 
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キャンパスを避けるように綱島街道を南下し、私が住んでいた日吉七丁目方面を目指す。綱島街道は結構な下り坂で、日吉駅やキャンパスが高台の上にあることに気づく。
キャンパスの敷地が尽きると、住宅地。学生を対象としたとおぼしき低層のアパートやマンションが目立つようになる。その一方で、武蔵小杉の駅前に林立しているようなタワーマンションは全く見られない。学園都市のイメージに相応しくないと判断されているのだろうか。ひょっとしたら、高層建築物に関する条例の類が制定されているのかもしれない。
日吉駅から800メートルほど南下すると、左手に、 アピタの建物が見えてくる。私が住んでいた頃もこのスーパーは存在していたが、前身のユニーを中核としたSCで「サンテラス日吉」と呼ばれていた。改称したのは2009年のことらしいが、どういう訳か最寄のバス停の名前が「ユニーサンテラス日吉」のままとなっていて、少し嬉しく感じた。
敷地の一角には、マクドナルドがある。この店舗もまた、私が住んでいた頃から営業していたし、ハンバーガーを買ったこともある。たかだかジャンクフードではあるが、かつて行ったことのある店を再訪したいという欲望には勝てず、ここで昼食を調達することとする。
ところが、ここで手違いが。私は店内での食事を所望していたのだが、何故か店員が持ち帰りと勘違いしてしまったため、注文した品物の一切合財を、紙袋に詰められてしまったのだ。「いや、持ち帰らないで店内で食べます…」とも言い直すこともできず、袋を片手にトボトボと店を出る私。もっとも、店内は家族連れが多数を占めていたから、アラフォーの一人客は浮きまくって仕方なかったろうが。
七丁目を目指しつつどこかの公園で食べるか…と考え直し、再び外へと出る。
 
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アピタから日吉七丁目までは、500メートルぐらいだろうか。日本大学高校・中学校のそばを通り、東海道新幹線のガードをくぐればすぐに着いてしまう。
それにしても、「日本大学高校・中学校」という校名は、少し変わっている。日本大学の付属学校といえば、「一高~三高」のように漢数字がついたり、あるいは「東北」「藤沢」のように地名がついたりするものだが(ちなみに、「佐野」「大垣」など地名の後に日本大学の名前が入る学校は、正付属ではなく準付属と位置付けられている)、その類が何もついていないというのは面白い。この学校の沿革を調べてみると、戦前は「日本大学第四中学校」と名乗っていたらしいが、現在は「日大日吉」という別称で呼ばれることが少なくないらしい。閑話休題
以前住んでいた場所は、「郵便局の近くにあるアパート」という記憶しか残っていない。「見ればわかるさ」と、かなり楽観的な見通しを立てていたのだが、既に取り壊されて久しい模様で、それらしい建物は見つからずじまい。仕方なく郵便局付近だけを撮影して、矢上小学校方面へと歩を進めることにする。
 
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