2013年8月22日 ~北東北一泊旅行記 その3~

数日前に福島の地元紙で知ったのだが、花葉館の館長さんは、なんと桑折町のご出身だとのこと。だから、お会いする機会を楽しみにしていたのだが、ご多忙のようで、結局ご挨拶できないままチェックアウトの時刻となってしまった。
9時半に、角館駅への送迎バスが出発。その際初めて、見送りにいらした館長さんの姿を見ることができた。優しそうな表情をした、初老の男性であった。
運転手の簡単な観光ガイドを聞きながら、20分ほどで、角館駅に到着。ここから2時間ほどは、町内の観光に充てたいと思う。タクシーに乗り換えてまず向かった先は、町の北端に位置する武家屋敷通り。黒板塀、そして枝垂桜や樅など生い茂る木々が特徴的な、風格あふれる一角だ。信州の妻籠宿や京都の産寧坂などとともに、1976年に国の重要伝統的建物群保存地区にも指定されている。
この町並みの礎を築いたのは、かつて会津地方を治めていた蘆名義勝(義広)。元々は佐竹氏を出自に持ち伊達政宗に敗れた後実家に戻っていた義勝は、関ヶ原の戦いで西軍側についた佐竹氏が秋田へと転封されたのに伴いこの地に入ったとのこと。その後蘆名氏は世継ぎがなく断絶したが、佐竹氏の分家である佐竹北家が入り、明治維新まで武家の町として存続した経緯があるという。
福島県茨城県秋田県との繋がりを示すエピソードではあるものの、そもそも佐竹氏が西軍に与さなければ蘆名氏も角館に移ることはなかった訳で、嬉しさよりも佐竹氏に対する恨み節と言うか、言葉にしにくい複雑な感情が、どうも先行してしまう。なお、蘆名氏と似たような経緯をたどった武将には、福島県いわき市周辺を治めていた岩城氏がいる。岩城氏もまた、関ヶ原の戦い当時に佐竹氏から当主を迎え入れていた関係で西軍に与していたとみなされ、現在の秋田県由利本荘市亀田への転封を余儀なくされた経緯がある。
 
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さて、通りを歩くだけではなく、実際に武家屋敷の中を見学しようかと思う。
まず訪れたのは、石黒家(参考URL:http://www.hana.or.jp/~bukeishi/)。佐竹北家重臣の屋敷で、築200年ほど。現在も末裔の方が住んでいるにもかかわらず、屋敷の内部を公開しているとのこと。規模はそれほど大きくないが、中に入るとガイドの方が屋敷内の座敷の詳細について説明してくれ、好感が持てた。
 
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下の写真は、石黒家の座敷の欄間にあった、亀の透かし彫り。ガイドの方の説明によると一枚板の木目を波紋に見立てているとのこと。また、昔の行燈や蝋燭の灯りだと亀の姿が影絵のように壁面に映ったとのことで、ずいぶん洒落たことをするなと思った次第。
この他にも屋敷や蔵を堪能し、30分ほどで石黒家を後にする。
 
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続いて訪れたのは、石黒家の南隣にある青柳家(参考URL:http://www.samuraiworld.com/)。青柳家は元々蘆名氏の家臣であり、その断絶後は佐竹北家に仕えるという経緯をたどっているとのこと。その関係か、敷地自体は石黒家より広く、展示物も豊富。ただし、展示物の中には大日本帝国時代の軍服や古いレコード、アンティークカメラなどがあったりして、武家屋敷や角館とは少々ミスマッチ気味。また、末裔の方も敷地内には居住していない。
写真は、戦国時代に使用されていたという甲冑、刀剣類を展示している蔵の内部と、樺細工と並ぶ角館の伝統工芸・イタヤ細工や農具などが展示されている秋田郷土館の外観。
 
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