2007年6月17日 ~本宮から小浜まで~

昨日は、職場の飲み会であった。
深酒の挙句寝過ごして今日の散歩は御破算という展開も想定されたのだが、やはり散歩の時の意識は別物で、予定通り午前5時に起床。前回の岳温泉行と同様に桑折駅発5時41分の上りの始発列車に乗り込む。
約1時間乗車し、6時38分着の本宮駅で下車。今日はここから、二本松市の南東部、旧岩代町の中心地である小浜を目指す。
まずは、本宮の街を散歩。昨年9月24日以来の本宮。以前歩いた時は「安達郡本宮町」、でも今年の1月に隣の白沢村と合併して現在は「本宮市」である。市になったとはいうものの、街の様子には今のところそれほど変化は見られない。
むしろ変化が見られたのは、阿武隈川を挟んだ対岸の、旧白沢村の地域だろうか。本宮市街北部の荒町から阿武隈川に架かる昭代橋を渡り、県道本宮岩代線をひたすら東進したのだが、沿道の道路標識の多くは既に「本宮市○○」となっていたし、企業や行政施設も「本宮」を冠したものが目立つ。行政施設については本宮市のものだから本宮とついていて当り前なのだが、4月28日に歩いた旧東和町(現二本松市)では未だに「東和町立○○小学校」の表記が散見されたので、本宮市のまとまりの良さが目立つ格好になっている。
旧本宮町の区域では住宅が目立っていたが、旧白沢村に入ると旧東和町と同じく田畑と雑木林が連続するいかにも阿武隈高地的な風景に。早朝散歩では意外に遭遇の機会が少ない東北新幹線のガード下と合併に伴い本宮市の総合支所となった旧白沢村役場の前を除けば、変わり映えのしないロケーションが続く。
そんな具合で単調そのものな行程にインパクトを与えてくれるのは、私が歩いている県道と交差する道路。道路標識を見ると「三春」「船引」(田村市)など、中通り中部の地名が目立つのだ。しかも十数キロという散歩で行けそうな近さ。地図で確認すると旧白沢村は三春町と隣接している訳で当然といえば当然なのだが、福島県北部の住民である私から見ると三春も船引も「郡山の更に先」の認識。距離感覚がちょっと狂ってしまう。
緩やかな登り勾配が続き、雑木林の割合が多少増えたかなと思うと、本宮市から二本松市に行政区画が変わる。二本松市といってもここは旧岩代町。住宅が建て込む二本松の市街とは違いまったくの農村部で、勾配が心持ち下りになったかなという感覚を除けば、旧白沢村と風景は大差は見られない。
が、しばらく歩くと、田畑がなくなり両側に急激に丘陵が迫ると同時に、沿道には逆に住宅が増えてくる。ここが、今回の目的地である小浜。初めて訪れる所だが、これほど田畑の少ない谷底にあるとは思ってもみなかった。それなりに大きな集落は周辺に農地があるのが普通なのに、小浜はどうして、そんなロケーションに形成されたのだろうか。
帰宅後に小浜関連のサイトを漁ってみると、小浜はどうやら、中世戦国大名大内氏によって形成された城下町が起源だということがわかる。大内氏は小浜を拠点に安達地方東部を治めていたものの、北の伊達郡には伊達氏、西の安達郡西部には畠山氏、南の田村郡には田村氏と強力な戦国大名が周辺に拠っていたため、常に緊張関係を余儀なくされていた。小浜に本拠を置いたのも、その「攻められにくい地形」故ではないかと推察される。また「小浜」という地名は、大内氏の前の居住地であった若狭国(福井県)小浜と地形が似ているから名づけられたとのこと。丘陵の中なのにどうして「浜」のつく地名がついているのだろうと疑問に思っていたのだが、ようやく氷解した次第。なお、大内氏は最終的には伊達政宗に服属することになり、結果、1年ほどの短期間ではあるが、小浜城は政宗の居城となったことがある。そのせいか、小浜の町中には「政宗ゆかり」と表現される歴史的施設が散見される。
ところで、小浜に入ったところで、本宮を出てから2時間半が経過。帰りは二本松行のバスに乗る予定だが時間調整そしてバス代の節約のために町内を東西に横切る国道459号線を二本松方面に西進。付近にホームセンターやスーパーがある大池田入口というバス停の前まで歩く。バス停に着いたのは、9時16分のことであった。