2009年8月3日 ~飯野町から歩く~

今日は、妻子が、家族ぐるみでお付き合いのある福島市飯野町の知人のところを訪ねることになっている。そこで、私もナビと称して(我が家のクルマにはカーナビがないのだ)便乗し、飯野町から散歩しようという魂胆。散歩は6月27日以来だから、実に1ヶ月以上のブランクとなってしまった。この背景には折からの悪天候や休日が所用でつぶれたせいもあるが、今日は珍しく快晴。道路から陽炎が立っている。復帰戦としてはやや厳しいコンディションとなってしまった。
飯野町の中心部に近いところでクルマを降り、妻子と別れて一人で散歩に出発。まずは、センターラインのある広い道を歩く。地図で見ると、この道は、阿武隈東部広域農道という名前になっているらしい。福島市立子山と川俣町山木屋とを結ぶ道路だ。農道というだけあって、沿道は田畑や雑木林が続くまさに農村らしい風景。でもよく見ると、果樹園が見当たらない。飯野町は旧伊達郡だが、果樹園を多く有する現在の伊達市桑折町国見町とは一線を画しているようだ。細かいアップダウンも多く、雰囲気的には南隣の二本松市東和地区に近い。
静かな農道ではあるが、沿道には保育所や小学校などもあり、そこだけは賑やか。水遊びに興じる子供たちの声が、かなり遠くまで響いていた。また、遠方に目をやると、飯野町のシンボル・千貫森の円錐形の山容がはっきりと見える。
主要地方道飯野三春石川線との交差点を渡り、アップダウンをこなすと、飯野町から立子山へと入る。風景的には、飯野町とさほど変わりない。と言うか、そもそも立子山は、1889年に市制・町村制が施行された当初、現在の飯野町青木と合併して「立木村」という村を形成していた。ところが数年後に分裂し、単独立村の道を歩むことになるばかりか、1950年代の町村合併促進法施行時においても飯野町青木村との合併が有力であったのにひとり外れて福島市との合併を選択するという歴史を有している。風土的には飯野と似ているがプライドの高い地域なのだ。
そして昨年、飯野町福島市編入された訳だが、この立子山はどうなるのだろうかと若干気になるところ。現在人口2,000人弱ながら市内の他地域から遠隔地にあるロケーションも相俟って支所や中学校が存置されてきた経緯があるが、これらもゆくゆくは飯野の支所や中学校に統合されてしまうのではないだろうか。少し気になるところではある。
その中学校や支所の至近、そしてサミットに病院のある丘を通り抜け、20世紀初頭に活躍した歴史学者・朝河貫一が幼少期を過ごしたという天正寺の前を通過。なかなか変化に富んだロケーションだ。天正寺から再度のアップダウンを経ると、大沢広表線に出る。これをちょっと歩くと、阿武隈川に架かる上蓬莱橋のたもとに到着。ここを歩くのは3年前の12月3日以来だからかなりのご無沙汰だ。阿武隈峡に架かる橋だけあって自殺の名所とも囁かれており、フェンスが2メートル以上の高さまで張り巡らされていたのが印象的。前回渡った時はこんなに高かったっけ。すっかり忘れてしまった。
橋を渡った先は蓬莱ニュータウンまで出てバスで帰ろうかと考えていたのだが、橋のすぐ近くにあるバス停の時刻表を見ると、なんと10分後に福島駅東口行のバスが出ることが判明。ここを通るバスは1日4本しかないのに何たるラッキーか。飯野町を出発してからここまでの歩行時間は1時間20分ほどしか経っていなかったが、炎天下の復帰戦ということもあり自重し、バスを待つことにした。