2009年10月5日 ~奥州街道再散歩⑧ 日和田から郡山、そして開成館まで

休日のたびに出掛けていた奥州街道への散歩だが、ここ10日ほどですっかり秋の気配となり、遠出が難しくなってきたようだ。よって、今日の散歩をもって、本年における遠方への散歩は終わりにしたいと思う。
ちなみに、今日の散歩は、前々回の終点だった日和田駅がスタート。そのまま奥州街道を南下して須賀川あたりまで行こうかと当初は考えていたのだが、前回の散歩での仙台城下町に引き続き今回も「街」を堪能したいと思い、郡山を重点的に歩くことにした。
散歩当日は、午前5時に起床。財布にタオル、そして携帯電話と最低限の装備を携え、自宅を出発。桑折駅発5時41分の上り始発列車に乗り込む。通勤時間帯にはまだ早いので車内ではボックス席の向かい側に足を投げ出しふんぞり返って外の景色を眺めていたが、列車が本宮に着くと様相が一変。プラットホームが高校生でごった返しているのを目にし、慌てて足を引っ込める。今日下車する日和田でも同様で、黒や紺の制服を着た高校生で賑わっていた。周囲は住宅地だしこれほどの乗客がいるのに日和田はどうして無人駅なのだろうかと疑問に思う次第。ちなみに、郡山市内にあるJRの駅は10あるが、福島、安積永盛磐梯熱海を除く7駅が無人駅である。
6時47分に駅構内を出、散歩スタート。まずは奥州街道に出て、郡山方面に南下する。電柱には「日の一」の地名表示。前々回の散歩でも「日の三」「日の二」の表示が見られたので気になっていたのだが、どうやら、日和田の宿場町(郡山市和田町字日和田)を分割した地域名称らしい。小字の更に下の「小々字」といったところか。
宿場町の南端で陸橋を渡り、東北本線の西側に出る。まだ7時前だが、小学生の姿もチラホラ見られる。郡山市の小学生は福島県には珍しく私服通学のようで、思い思いの服装、そして帽子を身につけていたが、どういう訳かランドセルに関しては、男子が黒、女子が赤と、昔ながらの色が殆どだった。
そんな小学生の姿と同じく新興住宅地と往時を偲ばせる松林が混在する一帯を通り抜けると、福原の宿場町。3年前と同じく、旧家が櫛形に建ち並ぶ姿に矜持を感じる。歩道に設けられた街灯も、灯篭を想起させてまた良い。が、現在の福原は、南の久保田、西の八山田とともに、郡山市富久山地区の一地域に過ぎない。小学校や行政センターなどの諸施設は、福原ではなく久保田との中間に集中しているのが現状だ。
その富久山地区だが、旧宿場町の福原、近年新興住宅地の開発が著しい八山田に対し、久保田については、郡山の市街地の外延としてスプロール現象的に市街地が延びてきたという印象しか抱いていなかった。が、改めて久保田を歩いてみると、その認識は間違いであったことに気付く。今週末に例大祭が行われるという日吉神社を中心とした区画に、旧家が集中しているのだ。門前町と呼ぶには規模は小さいが、それなりの歴史を有した集落と解釈した。そう言えば、街灯の形も福原と久保田では若干異なるようだ。
磐越西線のガードをくぐり、逢瀬川を渡ると、いよいよ郡山市の中心部。ビッグアイなどの高層ビルが左手前方に見えているが、街の北側の入口にあたる大町二丁目は昔ながらの商家もチラホラ残り、別の顔をのぞかせている。その南の大町一丁目は、郡山駅前から続く歓楽街。それぞれの街ごとに違う表情を見せてくれるのが何となく嬉しい。
駅前大通りとのスクランブル交差点を渡ると、郡山市随一の繁華街であるなかまち夢通り。大町二丁目とは対照的にビルが建ち並んでいるうえに路面自体も石畳で舗装されており昔日の面影は見るべくもない。宿場町の名残があるとすれば、沿道にホテルが結構多いことか。商店の開店にはまだ間があるが、通勤・通学時間帯にさしかかっているので、勤め人や学生の姿が目立つ。驚いたのは、自転車で疾走する勤め人の姿が結構見られたこと。郡山市で自転車通勤を奨励しているという話は聞いたことがないが、明治以降急速な発展をみた関係で旧くからの市街地と新興住宅地との距離が近接しているからこその現象であろうか。
そう、郡山の都市としての発展は、明治時代以降に顕著であった。だから中心部においては旧跡の類は殆ど見られないのであるが、逆に「近代」を想起させる洋風、擬洋風の建築は意外に多く残っている。なかまち夢通り近辺においても、1938に郡山商業銀行として建てられた東邦銀行郡山中町支店の洋風建築が存在するし、近年改修されたものだが秋田銀行郡山支店も石造りのシックな外観だ。
この種の建物は、なかまち夢通りから西へと延びているはやま(麓山)通り(主要地方道郡山湖南線)沿いに多く残っているというので、歩いてみることにした。出入口のスペースが広く妙に開放的な雰囲気の地下歩道を渡って国道4号線の西側に出ると、まず目に飛び込んでくるのが、郡山で一番最初に設立された小学校である金透(きんとう)小学校の正門。この金透小学校をはじめ郡山市内の小学校には、地名ではない名前が付けられているケースが多い。ちなみに「金透」は、長州藩出身の維新の志士・木戸孝允命名によるもの。私の住む桑折町の学校名に多用されている「醸芳」も木戸の命名によるものだから、妙な親近感を覚える。学校の敷地の外れには、木戸が訪れた当時の校舎が移転復元している。高台にあるのではやま通りからだとちょっと見づらいが、松本の開智学校を思わせる擬洋風建築の立派な校舎である。
金透小学校付近は毎年1月に開催される七日堂まいりの際には賑わう如宝寺門前の商店街であるが、少し歩くと、税務署や裁判所など役所が続く地帯に入る。弁護士や司法書士などいやゆる士業の事務所も多く、商業都市・郡山には珍しい「官の街」だ。その一角に、福島県郡山合同庁舎がある。郡山市役所として1930年に建てられたコンクリート造りの洋風建築で、正面の塔屋が近年建てられたビルにはない個性を主張している。
更に西へ歩くと、左手に麓山公園、右手に21世紀記念公園と、今度は「緑の街」。なかまち夢通りから1キロも歩いていないのに、変遷が目まぐるしい。なお、この辺りを左に折れると郡山の市制施行(1924年)を記念して建てられた郡山市公会堂のレンガ造りの洋風建築があるのだが、見逃してしまった。
公園から西側は、昭和時代を思わせる古びた商店街。まだ開店前ということもあって活気に乏しいが、すぐ北側にザ・モール郡山がオープンし、すぐ西側にある豊田浄水場も近い将来移転することが決まっているので、今後の開発次第では、大きく変貌する可能性を秘めている。浄水場が移転して再開発された市街地と言えば新宿駅西口が想起されるが、こちらは果たしてどうなることやら。
市街地の中にありながら意外に広々としておりかつ周囲の緑も充実していた貯水池を過ぎると、右手には庭園と和風とも洋風ともつかない邸宅が。ここは、郡山出身の作家・久米正雄の邸宅を移築した久米正雄記念館。商い一辺倒ではなくこういった文化施設が街中にあるのも、郡山の魅力の一つと言えそうだ。そう言えば、記念館の少し北側のさくら通り沿いには、日本画を中心に展示している郷さくら美術館もあったはずだ。
環状線との交差点を渡ると、右側は開成山公園となる。さくら通りからだと築堤が邪魔で中がよく見えないこの公園だが、はやま通り側からだとある程度内部を見ることができる。せせらぎこみちと称される親水空間を備えた遊歩道が整備されているのが特徴である。南側は商店街が尽きて郊外を思わせる住宅地~なかまち夢通りで見た自転車通勤の勤め人のなかには、この辺りに居を構える人もいるのであろう~であるが、その中で異彩を放っているのが、瓦屋根にレンガ壁という外観の旧安積疏水事務所の和洋折衷風建物。1937年に建てられたというからこれまで見てきた建物群の中では新しい部類に入るが、趣深い建物だ。
そして、開成山公園の西端を過ぎ国道49号線を渡ると、その建物群のラストを飾るにふさわしい開成館の擬洋風建築が、通りの行く先を防ぐかのように姿を現す。当初は安積郡役所として機能した建物だが、現在では安積疏水や安積開拓の資料館的施設となっている。中に入ってみたかったが、時刻はまだ8時半。開館は10時なので、閉ざされた門の外から遠巻きに眺める他はなかった。