2009年11月2日 ~国見町を歩く~

10月後半は所用のため休日に歩くことができず、結局、10月中旬に予定していた国見町への散歩は、11月2日までずれ込んでしまった。
前日の1日はなんと夏日を記録する暖かさだったのだが夜から一転し、低気圧接近に伴う低温。夜中には雨も降った。新聞によれば、2日の最高気温も10度止まりであり、午後からは雨が降り山下達郎の曲ではないが夜には雪へと変わるという。
が、朝の時点では雨が降っていないどころか薄日も射している。だから、午前中のうちに歩いてみようかと思い、8時半に自宅を出発した。
奥州街道を北上し、30分ほどで国見町との境界に到着。左側が段丘になっており、その上には国見ニュータウンと称する新興住宅地が造成されている。通勤で利用する東北本線の車窓からもよく見える所だが散歩では訪れたことがなかったので、立ち寄ってみる。国見町内随一の住宅地ということもあり、街路樹が植えられたメインストリートなど、それなりに気合いが入っているようだ。が、私がまず驚いたのは、家々の形が実に多彩だったことだった。二階建ても平屋も、和風建築も洋風建築も、瓦屋根もスレート屋根も、ごちゃまぜに建っている。どういう訳か屋根の色だけは大半がグレーであったのだが、家々のデザインに関してかなりの部分が建て主の裁量に委ねられているものと推察される。先月訪れた旧伊達町の諏訪野に比べると、私好みの新興住宅地ではある。
しばらく歩くとメインストリートは東北本線と並行し、国道4号線と東北自動車道国見ICや羽州街道とを結んでいる主要地方道白石国見線をオーバークロスし、国見町の中心駅である藤田駅の前へと進む。藤田は東北本線区間列車も発着するなどそれなりの主要駅ではあるが、駅前は人家も少なくやや寂しい景観。それもそのはずで、奥州街道の藤田宿を基盤としている国見町の中心街は、駅前から500メートルほど東に離れた段丘の下にある。
それでも最近は駅付近への住宅建設が増えているようだ。国見ニュータウンといい藤田駅付近といい、国見町内は新しい住宅が本当に目立つ。が、人口は漸減傾向にあり、バブル期には1万2千人ほどだったのが現在は1万人の大台を割り込みそうなところまできている。少子化も進行しており、町内にある小学校を一つに統合しようかという話も出ているほどだ。
住宅地をしばらく歩くとちょっとした工業団地があり、更に先へ進むと田んぼの中へと出る。前方の山中には東北本線、そして東北自動車道が高い位置を走っているのが見える。そして山を越えると宮城県。ちょっと不思議な気がする。
そんな田んぼの中、藤田から見ると北北東の方角に、こんもりと樹木が茂っている一帯がある。ここは、戦国時代に伊達氏の家臣・石母田氏が拠ったという石母田城跡。国見町は中世城郭の宝庫ともいえ、藤田駅を挟んだ南北にも藤田城跡、山崎城跡が所在するが、保存状態の面ではこの石母田城跡が随一であろう。特に個人的に惹かれるのは、城跡の南側と東側に城下の集落が現存していること。訪れてみると町家や武家屋敷と言うよりは農村集落風ではあったが、ミニミニ城下町の雰囲気は味わえた。
石母田城跡からは東に進路をとり、東北本線の脇を通っている細道を進む。県境にむけてどんどん高度を上げていく線路とは対照的に小さな川に沿った比較的平坦なルートを歩くと、義経の腰掛松と称する立派な松の木が現れる。義経が源氏再興のため奥州平泉から兄・頼朝が挙兵した伊豆へと馳せ参じた際この松の枝に腰をかけ休息をとった事に由来して付けられたとの話が伝わっている。義経は平泉で死なず北海道やモンゴルへと渡ったとする「義経伝説」と同種の付会としか思えないが、福島県内の東山道沿道(と推測される地域)で国見町だけにこの種の伝説が残っている(なお、関連人物も含めれば、郡山市静御前の終焉伝説が残ってはいる)のは、考えようによっては面白い。
腰掛松からは、果樹園の中の山道へと入る。どうやらここが、3年前と今年の8月に訪れようとしたもののかなわなかった奥州街道国見峠長坂への道らしい。さっきまで頭上はるか上を通っていた東北本線の線路に急接近しながら登っていくと、平家を滅ぼし天下を掌握した後の源氏軍に対抗すべく奥州藤原氏軍が建設した阿津賀志山防塁の跡がかなりしっかり残っている~今年5月に行われた発掘調査で、防塁は旧東山道を遮るように築かれていることが判明したそうだ~など思わぬ発見もあり、なかなか面白い道だ。
ここと奥州街道とを結ぶ道路は結局発見できずじまいであったが、目指す国見峠長坂はちゃんと見つかった。国見町のホームページをはじめ各種サイトでは古い奥州街道の雰囲気を残していることが強調されているが、見た感じは特段の難所とも思えない単なる幅が広めの山道であり正直なところそこまでの魅力は感じなかった。というか、国見峠から北側の道が果樹園に阻まれて途絶していたことも相まって、ここが本当に奥州街道だったのか疑わしい感じすらした。