2009年11月24日 ~旧吾妻町探訪~
日に日に冬が近づき、だんだんと寒くなってきた。
今年の散歩もあと2、3回といったところか。しかも出先は自宅近辺に限られる。
こんなことを繰り返して早4年目、いい加減にネタも少なくなってきた感があるのだが、今回は、福島市にありながら散歩はもちろんのことそれ以外の機会でも利用した経験がなかった笹木野駅を起点に、歩いてみることにした。
駅の周囲は何度も歩いているのでどういうコースを歩こうか迷ったが、一旦西進して庭坂に出た後、高湯街道(主要地方道福島吾妻裏磐梯線)を東進し、福島駅を目指すことにした。東側を上にすると、ちょうどアルファベットの「J」のような形になる。
桑折駅発8時13分の電車で出発。8時27分に福島駅到着後、8時33分発奥羽本線(山形線)庭坂行電車に乗り換える。通勤時間帯を過ぎた上にたった2駅の間しか走らない区間列車ということもあり、2両ある車両を見渡しても、乗客は私を含めて3人しかいなかった。住宅地の中を走り、笹木野駅には8時37分に到着。降りたのは私一人だけ。簡素な作りの駅舎を出ると、さして広くない駅前広場にタクシーが待っていた。営業所が近くにあるのだろうが、ここからタクシーに乗る客なんているのだろうか。
かように寂しげな笹木野駅前ではあるが、先述したように周辺は住宅地である。では何故奥羽本線の利用者が少ないのかと言うと、福島~庭坂間を並行して走るバスの本数が異常に多いのだ。系統はいくつかあるのだが、笹木野駅付近で言うと、駅前に近いJA野田支店前バス停で10往復半、500メートル北側の県道庭坂福島線(八島田街道)沿いにある笹木野駅入口バス停で32往復半が発着している。これに対して奥羽本線はわずか11往復。しかも日中に3時間も4時間も電車が運行されない時間帯があるから、敵いっこないのが現状だ。
ところで、先ほどJA野田支店バス停と書いたが、笹木野駅付近にはこの他にも、福島市立野田小学校、野田中学校など、野田がつく施設が多い。福島市で野田と言えば旧市街のすぐ西側にある野田町を連想するが、そもそも野田という地名は1889年に笹木野、上野寺、下野寺、八島田の4村が合併した際に各村の文字を一つずつとって合成させた村名が由来である。現在の福島市野田町は、その一部が1957年に福島市に編入された際新たに命名された区画にすぎない。
そんなことを思い出しながら西へと歩いていると、前方に吾妻連峰が見えてきた。頂に雪を載せているのもよく見える。天気は快晴。晴天下での早朝散歩はかなり久しぶりのことだ。ちなみに、野田村は1956年に大庭村(1954年に庭坂村と庭塚村が合併してできた村)、水保村と合併して吾妻村となり、1962年の町制施行を経て、1968年に福島市に編入されるという経過をたどっている。今歩いている場所もそうだが、吾妻連峰の頂上部までもが、かつては吾妻町の区域であった。
東北自動車道をアンダークロスすると、住宅が減り梨畑が増えてくる。笹木野原と呼ばれるこの辺りで名産の萱場梨であるが、実のところ、どうしてここだけに梨畑が多いのか疑問を持っていた。伊達地方の桃と同じく桑からの転作かと推察していたのだが、沿道に萱場梨百年記念碑なるものを見つけて、かつて笹木野原は水利の悪い砂礫地の原野であり、明治時代中期に地元の鴫原佐蔵という人物が試行錯誤の末に梨園経営に成功したということを初めて知る。
そういった話を知るのと知らないのとでは、梨畑を見る目も変わってくる。後で調べたところ笹木野原近辺の梨畑はまとまった区画としては日本一の広さを誇るとのことで、この先100年でも200年でも同じ広さのまま残って欲しいと思うのだが、無情にも庭坂の町が前方に近付いてきた。
庭坂は米沢街道の宿場町が起源ではあるが、時代によって新しい性格の町がいくつか形作られていったという稀有な歴史を有している。今回の散歩では、それらを回ってみようかと思う。
まず訪れたのは、今年1月16日にも訪れた、福島運転免許センター周辺の町並み。広い県土の北端に県で唯一の運転免許試験場が開設された関係で、その周囲に受験者用の旅館がいくつか建ち並んでいるのが特徴だ。企業城下町の亜種と言えそうだが、全国的に見てもかなり珍しい事例ではなかろうか。
ただし、1997年に郡山市にも運転免許センターが開設されて以降はわざわざ庭坂に宿泊する必然性が低下したのだろうか、町並みにも陰りが見えているように思える。廃業した旅館もあるようだ。今後の行く末が若干心配ではある。
フルーツライン(主要地方道上名倉飯坂伊達線)を渡り、少し歩くと、庭坂の宿場町に入る。まずは北端の横町、荒町から歩いたのだが、道幅の広さと沿道の家々の古さ、そして大きさ、そして大半の家にあった土蔵が印象に残った。家々の屋根が茅葺きであったならば下郷町の大内宿に雰囲気が似ていると言えなくもない。米沢街道は羽州街道ほどメジャーな街道ではないので正直期待していなかったのだが、いい意味で裏切られた形だ。信達地方と米沢とが伊達氏、蒲生氏、上杉氏と同一の領主により治められていた戦国時代から江戸時代初期にかけては米沢街道も領内第一級の幹線道路だった訳だし、その過程で庭坂も発展していったのであろうか。何故か庭坂街道踏切と書かれていた奥羽本線の踏切を渡り、枡形(クランク)を経ると、宿場町の中心をなす内町。ここも荒町同様広い道路に大きな旧家が展開している。何と言っても枡形が良い。庭坂の周囲は平坦なだけに、要の宿場町として要害性を求めた結果なのだろうかと推察する。
宿場町はこの先フルーツラインを横断した後2、3ヶ所の枡形を経て新町へと続くのであるが、私は内町の途中で右に折れ、500メートルほど西にある湯町へと進んだ。この湯町は、現在でこそ荒町、内町などと同様に旧家が道路に沿って展開しているのだが、その成り立ちは宿場町とは大きく異なり、明治時代中期の県令・三島通庸の肝いりで新しく造られた温泉街に由来しているという。5キロほど西に位置する高湯温泉から湯を引き、宿泊施設や遊郭、そして何故か県令や警察部長などの官舎も建ち並び、建設当初は相当賑わったという。なお、三島がこの地に温泉街を造った理由は、万世大路の開通に伴い寂れてしまった庭坂の再活性策とも、温泉好きとも言われた三島が中央の政治家、官僚をもてなすためだったとも言われる。先ほど目にした庭坂宿の立派さを思うと前者の可能性も捨て切れないが、県令時代に福島から飯坂までの道路(現在の主要地方道福島飯坂線・飯坂街道)や後に栃木県令に転じてからは自身の所有する別荘や農園があった那須塩原市西那須野から塩原温泉までの道路(現在の国道400号線・塩原街道)の建設に携わったことを考えると、後者の方に信憑性を感じてしまう。
南北に細長い湯町の南端を出ると坂を降り、田んぼの中に出る。田んぼ? 庭坂に入るまでは一面の梨畑だったのに、数キロも離れていないこちらは一面の田んぼ。どうやらこの辺りは笹木野原と違って水利が良いようだ。地上地下を問わず流れる水の機微というか奥深さを体感した次第。
再びフルーツラインを渡って県道庭坂福島線に入り、宿場町南部の新町及び庭坂駅近辺の住宅街を左手遠方に見ながら東進する。しばらくすると住宅街が近づいてきて宿場町の南端に合流し、十字路に差し掛かる。ちょっと見ただの十字路であるが、歴史的に見ると重要な交差点で、そのまま県道を直進すれば福島へ、右折すれば大森から八丁目(松川)へと至る。かつては後者が米沢街道のメインルートであったが、信達地方が上杉氏の支配を離れ福島藩が成立すると米沢街道は前者のルートに移った経緯がある。どちらも興味をひかれるが、庭坂の南側を通っている高湯街道に出るには後者のルートを歩くしかない。
再び田んぼの中を通り、高湯街道に合流。福島と高湯温泉、磐梯吾妻スカイライン、そして裏磐梯とを結ぶ観光ルートであるが、スカイライン自体が11月15日に今年の営業期間を終了しているため、観光バスの姿は全然ない。沿道もまた、平凡な農村地帯である。東北自動車道をアンダークロスするとその東側では住宅の割合が増えてくるのもまた、笹木野近辺と変わらない。
こういう場所ではえてして歩くスピードも速くなりがちなのであるが、住宅の密度が増しもうすぐ福島の中心街というところで以前から気になっていたスポットが二つあったので、ちょっと寄り道。一つは福島市内で和食レストランや和菓子屋を経営している岩代屋敷大王。数日前に妻と知人との会話にてここで製造販売している和菓子・いもくり佐太郎の話題になったことがあり、ちょっと買ってみようかなと思ったのである。店内に入ると、店員さんの応対がとても明るく丁寧で、好感が持てた。きっとお菓子もおいしいに違いない。
もう一つは、岩代屋敷大王から見て街道を挟んで斜向かいにある醴(あまざけ・甘酒)観音堂である。こちらは、前回及び前々回の散歩で観音様に絡んだ散歩をしたのと醴という妙な名前にひかれて立ち寄った次第。観音堂自体はさしたる特徴はなかったが、脇に掲げられた案内文を読むと、信達準坂東観音の第二十四番札所だという。信達準坂東三十三観音は、信達三十三観音に比べて知名度で大きく劣り、ネットでいくら検索してもどこに何番札所があるのか全然わからない。であるだけに、今回の発見はとても嬉しかった。確か二十二番札所が上鳥渡の観音寺にあるはずだから、地理的に見て二十三番札所は佐倉下か桜本辺りにあるのかなと推察を巡らせてしまう。
散歩には不似合いな手提げ袋をぶら下げながら気分を良くし、福島駅までの道を歩く。沿道はロードサイドショップが展開する典型的な都市近郊の風景だが、国道4号線や13号線、あるいは福島西道路に比べると道幅が狭いので、福島の中心街で失われつつある街のにぎわいを逆に感じてしまう。あと、この界隈には、結婚式場やブライダルを主目的にした教会、ホテルが結構目立つのが特徴だ。高湯街道改めブライダル通りと命名したくなってなってしまうが、それはいくらなんでも持ち上げ過ぎか。
今年の散歩もあと2、3回といったところか。しかも出先は自宅近辺に限られる。
こんなことを繰り返して早4年目、いい加減にネタも少なくなってきた感があるのだが、今回は、福島市にありながら散歩はもちろんのことそれ以外の機会でも利用した経験がなかった笹木野駅を起点に、歩いてみることにした。
駅の周囲は何度も歩いているのでどういうコースを歩こうか迷ったが、一旦西進して庭坂に出た後、高湯街道(主要地方道福島吾妻裏磐梯線)を東進し、福島駅を目指すことにした。東側を上にすると、ちょうどアルファベットの「J」のような形になる。
桑折駅発8時13分の電車で出発。8時27分に福島駅到着後、8時33分発奥羽本線(山形線)庭坂行電車に乗り換える。通勤時間帯を過ぎた上にたった2駅の間しか走らない区間列車ということもあり、2両ある車両を見渡しても、乗客は私を含めて3人しかいなかった。住宅地の中を走り、笹木野駅には8時37分に到着。降りたのは私一人だけ。簡素な作りの駅舎を出ると、さして広くない駅前広場にタクシーが待っていた。営業所が近くにあるのだろうが、ここからタクシーに乗る客なんているのだろうか。
かように寂しげな笹木野駅前ではあるが、先述したように周辺は住宅地である。では何故奥羽本線の利用者が少ないのかと言うと、福島~庭坂間を並行して走るバスの本数が異常に多いのだ。系統はいくつかあるのだが、笹木野駅付近で言うと、駅前に近いJA野田支店前バス停で10往復半、500メートル北側の県道庭坂福島線(八島田街道)沿いにある笹木野駅入口バス停で32往復半が発着している。これに対して奥羽本線はわずか11往復。しかも日中に3時間も4時間も電車が運行されない時間帯があるから、敵いっこないのが現状だ。
ところで、先ほどJA野田支店バス停と書いたが、笹木野駅付近にはこの他にも、福島市立野田小学校、野田中学校など、野田がつく施設が多い。福島市で野田と言えば旧市街のすぐ西側にある野田町を連想するが、そもそも野田という地名は1889年に笹木野、上野寺、下野寺、八島田の4村が合併した際に各村の文字を一つずつとって合成させた村名が由来である。現在の福島市野田町は、その一部が1957年に福島市に編入された際新たに命名された区画にすぎない。
そんなことを思い出しながら西へと歩いていると、前方に吾妻連峰が見えてきた。頂に雪を載せているのもよく見える。天気は快晴。晴天下での早朝散歩はかなり久しぶりのことだ。ちなみに、野田村は1956年に大庭村(1954年に庭坂村と庭塚村が合併してできた村)、水保村と合併して吾妻村となり、1962年の町制施行を経て、1968年に福島市に編入されるという経過をたどっている。今歩いている場所もそうだが、吾妻連峰の頂上部までもが、かつては吾妻町の区域であった。
東北自動車道をアンダークロスすると、住宅が減り梨畑が増えてくる。笹木野原と呼ばれるこの辺りで名産の萱場梨であるが、実のところ、どうしてここだけに梨畑が多いのか疑問を持っていた。伊達地方の桃と同じく桑からの転作かと推察していたのだが、沿道に萱場梨百年記念碑なるものを見つけて、かつて笹木野原は水利の悪い砂礫地の原野であり、明治時代中期に地元の鴫原佐蔵という人物が試行錯誤の末に梨園経営に成功したということを初めて知る。
そういった話を知るのと知らないのとでは、梨畑を見る目も変わってくる。後で調べたところ笹木野原近辺の梨畑はまとまった区画としては日本一の広さを誇るとのことで、この先100年でも200年でも同じ広さのまま残って欲しいと思うのだが、無情にも庭坂の町が前方に近付いてきた。
庭坂は米沢街道の宿場町が起源ではあるが、時代によって新しい性格の町がいくつか形作られていったという稀有な歴史を有している。今回の散歩では、それらを回ってみようかと思う。
まず訪れたのは、今年1月16日にも訪れた、福島運転免許センター周辺の町並み。広い県土の北端に県で唯一の運転免許試験場が開設された関係で、その周囲に受験者用の旅館がいくつか建ち並んでいるのが特徴だ。企業城下町の亜種と言えそうだが、全国的に見てもかなり珍しい事例ではなかろうか。
ただし、1997年に郡山市にも運転免許センターが開設されて以降はわざわざ庭坂に宿泊する必然性が低下したのだろうか、町並みにも陰りが見えているように思える。廃業した旅館もあるようだ。今後の行く末が若干心配ではある。
フルーツライン(主要地方道上名倉飯坂伊達線)を渡り、少し歩くと、庭坂の宿場町に入る。まずは北端の横町、荒町から歩いたのだが、道幅の広さと沿道の家々の古さ、そして大きさ、そして大半の家にあった土蔵が印象に残った。家々の屋根が茅葺きであったならば下郷町の大内宿に雰囲気が似ていると言えなくもない。米沢街道は羽州街道ほどメジャーな街道ではないので正直期待していなかったのだが、いい意味で裏切られた形だ。信達地方と米沢とが伊達氏、蒲生氏、上杉氏と同一の領主により治められていた戦国時代から江戸時代初期にかけては米沢街道も領内第一級の幹線道路だった訳だし、その過程で庭坂も発展していったのであろうか。何故か庭坂街道踏切と書かれていた奥羽本線の踏切を渡り、枡形(クランク)を経ると、宿場町の中心をなす内町。ここも荒町同様広い道路に大きな旧家が展開している。何と言っても枡形が良い。庭坂の周囲は平坦なだけに、要の宿場町として要害性を求めた結果なのだろうかと推察する。
宿場町はこの先フルーツラインを横断した後2、3ヶ所の枡形を経て新町へと続くのであるが、私は内町の途中で右に折れ、500メートルほど西にある湯町へと進んだ。この湯町は、現在でこそ荒町、内町などと同様に旧家が道路に沿って展開しているのだが、その成り立ちは宿場町とは大きく異なり、明治時代中期の県令・三島通庸の肝いりで新しく造られた温泉街に由来しているという。5キロほど西に位置する高湯温泉から湯を引き、宿泊施設や遊郭、そして何故か県令や警察部長などの官舎も建ち並び、建設当初は相当賑わったという。なお、三島がこの地に温泉街を造った理由は、万世大路の開通に伴い寂れてしまった庭坂の再活性策とも、温泉好きとも言われた三島が中央の政治家、官僚をもてなすためだったとも言われる。先ほど目にした庭坂宿の立派さを思うと前者の可能性も捨て切れないが、県令時代に福島から飯坂までの道路(現在の主要地方道福島飯坂線・飯坂街道)や後に栃木県令に転じてからは自身の所有する別荘や農園があった那須塩原市西那須野から塩原温泉までの道路(現在の国道400号線・塩原街道)の建設に携わったことを考えると、後者の方に信憑性を感じてしまう。
南北に細長い湯町の南端を出ると坂を降り、田んぼの中に出る。田んぼ? 庭坂に入るまでは一面の梨畑だったのに、数キロも離れていないこちらは一面の田んぼ。どうやらこの辺りは笹木野原と違って水利が良いようだ。地上地下を問わず流れる水の機微というか奥深さを体感した次第。
再びフルーツラインを渡って県道庭坂福島線に入り、宿場町南部の新町及び庭坂駅近辺の住宅街を左手遠方に見ながら東進する。しばらくすると住宅街が近づいてきて宿場町の南端に合流し、十字路に差し掛かる。ちょっと見ただの十字路であるが、歴史的に見ると重要な交差点で、そのまま県道を直進すれば福島へ、右折すれば大森から八丁目(松川)へと至る。かつては後者が米沢街道のメインルートであったが、信達地方が上杉氏の支配を離れ福島藩が成立すると米沢街道は前者のルートに移った経緯がある。どちらも興味をひかれるが、庭坂の南側を通っている高湯街道に出るには後者のルートを歩くしかない。
再び田んぼの中を通り、高湯街道に合流。福島と高湯温泉、磐梯吾妻スカイライン、そして裏磐梯とを結ぶ観光ルートであるが、スカイライン自体が11月15日に今年の営業期間を終了しているため、観光バスの姿は全然ない。沿道もまた、平凡な農村地帯である。東北自動車道をアンダークロスするとその東側では住宅の割合が増えてくるのもまた、笹木野近辺と変わらない。
こういう場所ではえてして歩くスピードも速くなりがちなのであるが、住宅の密度が増しもうすぐ福島の中心街というところで以前から気になっていたスポットが二つあったので、ちょっと寄り道。一つは福島市内で和食レストランや和菓子屋を経営している岩代屋敷大王。数日前に妻と知人との会話にてここで製造販売している和菓子・いもくり佐太郎の話題になったことがあり、ちょっと買ってみようかなと思ったのである。店内に入ると、店員さんの応対がとても明るく丁寧で、好感が持てた。きっとお菓子もおいしいに違いない。
もう一つは、岩代屋敷大王から見て街道を挟んで斜向かいにある醴(あまざけ・甘酒)観音堂である。こちらは、前回及び前々回の散歩で観音様に絡んだ散歩をしたのと醴という妙な名前にひかれて立ち寄った次第。観音堂自体はさしたる特徴はなかったが、脇に掲げられた案内文を読むと、信達準坂東観音の第二十四番札所だという。信達準坂東三十三観音は、信達三十三観音に比べて知名度で大きく劣り、ネットでいくら検索してもどこに何番札所があるのか全然わからない。であるだけに、今回の発見はとても嬉しかった。確か二十二番札所が上鳥渡の観音寺にあるはずだから、地理的に見て二十三番札所は佐倉下か桜本辺りにあるのかなと推察を巡らせてしまう。
散歩には不似合いな手提げ袋をぶら下げながら気分を良くし、福島駅までの道を歩く。沿道はロードサイドショップが展開する典型的な都市近郊の風景だが、国道4号線や13号線、あるいは福島西道路に比べると道幅が狭いので、福島の中心街で失われつつある街のにぎわいを逆に感じてしまう。あと、この界隈には、結婚式場やブライダルを主目的にした教会、ホテルが結構目立つのが特徴だ。高湯街道改めブライダル通りと命名したくなってなってしまうが、それはいくらなんでも持ち上げ過ぎか。