2010年2月12日 ~東邦銀行支店巡礼⑤ 飯野支店~

昨日、今日と連休であった。
昨日は家族で私の誕生パーティーをささやかに開催し真っ昼間から飲酒してしまったため、散歩できるはずもない。そこで今日歩くつもりでいたのだが、あいにく昨晩から今日未明にかけて雪が降り、路面にも積雪。今朝起きたところ止んでいたので予定通り歩こうかと思うが、前回に引き続きバッドコンディションとなってしまった。
今日のルートは、前回の終点である川俣町から福島市飯野町にある飯野支店(112)を経て東北本線の松川駅までというスケジュール。1972年に廃止された国鉄川俣線(松川~岩代川俣間12.2キロ)の跡にほぼ沿う形となる。
午前7時に自宅を出発。桑折駅7時13分発の上り電車に乗って福島駅に7時27分着。そこから7時35分発のJRバスに乗り換えて川俣まで行く予定であったが、肝心のバスが予定時刻になってもなかなか来ない。川俣高校の生徒らしき高校生と一緒に寒空の下待つこと20分。ようやくバスがやってきた。
昨晩の雪の影響で、福島市内の道路はいつもより込んでいるようだ。特に国道4号線の混雑が激しく、県庁裏の阿武隈川に架かる大仏(おさらぎ)橋の付近で長時間の待ちぼうけを余儀なくされる。「終点の川俣高校前への到着は9時を過ぎると思います」特に申し訳なさげでもなく淡々とした口調で、運転手が説明する。定時運転ならばこのバス停には8時25分に着くので30分以上の遅延は必至。散歩の予定も大幅に狂うことになる。
再び阿武隈川を渡る弁天橋の手前でバスは左折し、旧国道114号線へと入る。今なお福島市と川俣町とを結ぶメインルートのひとつを形成しており富岡街道の別称もあるが、沿道には宿場町らしい集落は存在しない。福島市街と阿武隈川対岸の渡利地区とを結ぶ初めての橋である松齢(しょうれい)橋が1883年に架橋されているので、富岡街道は恐らく、橋が開通した明治時代に開削された道路なのであろう。
ここで、江戸時代以前の川俣と奥州街道沿いとを結ぶメインルートはどこだったのだろうという疑問が湧いてくる。手掛かりになるのは奥州街道沿いと現在の相馬市とを結ぶ相馬街道(奥州西街道とも)の存在であるが、そもそもこの街道は起点が本宮、二本松、八丁目(福島市松川町)と諸説あるなどルートが定まっておらず、川俣を経由していたのかどうかも不明である。
そう。遠くないところに住んでいながら、私には川俣について知らない点が多々ある。せめてその一端でも理解できればと思い、川俣の中心商店街をいったん通り抜け、その東端に位置する川俣高校前までバスに乗り続けた。遅刻確定の高校生に交じり、バスから降りる。福島駅東口からの運賃は990円也。時計を見ると9時03分。自宅を出発してからもう2時間が経過している。
川俣は標高200メートルを超える土地だけあって、福島市内に比べると積雪量も多そうだ。が、意外なことに、歩き心地は悪くない。沿道の商店や人家がこぞって、歩道や路肩を除雪してくれていたおかげだ。さすがに空き店舗や空き家の前は除雪されていなかったが、その範囲は些細なものである。川俣の商店街は空洞化が進んでいないという証左でもあり、一安心する次第。
とは言うものの、商店街に建ち並ぶ店の多くは古びており、私のような余所者がスッと入れる雰囲気ではない。今後、行く人の足を止める工夫が必要になるだろう。その意味では、織物や川俣シャモなど町の名産品を取り揃えた道の駅川俣シルクピアが商店街の西方2キロほどの場所に設けられてしまったのは、商店街にとってはマイナスだったかもしれない。
が、川俣町独自の事情もある。実はシルクピアは、1989年に閉校した川俣町立鶴沢小学校の跡地に建っている。川俣町ではこの四半世紀の間に小学校が6校も閉校になったので、跡地の有効利用も重要な政策課題とならざるを得ないのだ。なお、それぞれの小学校の活用法についてみていくと、前回の散歩の際に通過し一昨年閉校した小島小学校が体験宿泊施設、同じく一昨年閉校した福沢小学校が美術館として活用されることが決まっており、1985年に閉校した小綱木小学校の跡地は川俣シャモの加工食品を製造している川俣町農業振興公社の工場になっている。
従って、商店街の整備は後回しになってしまった感があるが、毎年「世界一長いやきとり」のギネス記録を目指している川俣シャモまつりや我が国最大の中南米音楽祭であるコスキン・エン・ハポンなどイベントの企画力に長けた川俣のこと。商店街の活性化についても、個性的なアイデアが出てくることを期待したい。
本町(もとまち)、中丁、瓦町、鉄砲町、新中町と旧国道349号線に沿って長く続く商店街を通り抜け、一旦国道349号線に合流した後、国道114号線川俣バイパスとの交差点を右折し、西へと向かう。アルファベットのZを逆にしたような形でジグザグに進むことになる。バイパスは丘陵の中腹を通っており、川俣の町がよく見渡せる。商店街を歩いていた時には気がつかなかったが、町の周囲の丘陵に寺社が多いのが目立つ。川俣が歴史ある町である証左と言えよう。そう言えば、川俣には瓦町、鉄砲町と、いわゆる職業町名もある訳で、蒸し返しになるが、やはり川俣を経由する古い街道はあったのだろう。
短いトンネルを通過し、その先の交差点で右折。曲がった先は、沿道に済生会川俣病院があるからか、街路樹が植えられたきれいな道路である。そう言えば、川俣で街路樹を見たのは、初めてのことかもしれない。商店街においても、中丁から瓦町までの区間を一方通行にして歩道を広げ、そこに街路樹を植えてみたらどんなものだろうと夢想する。
病院の前で今度は左折。現在でこそ変哲のない住宅街の道路だが、実はこれが、川俣線の跡なのである。終点だった岩代川俣駅の跡地は現在集合住宅となっており、その一角に、駅跡を示す石碑と元川俣駅資料館と書かれた二階建ての建物が建っている。資料館には心ひかれるものがあるが、常時開館はしていないらしく、一体どんな資料が展示されているのかはわからない。
駅跡から300メートルほどで、川俣線跡の道路は川俣バイパスに吸収される。鉄道がモータリゼーションによって駆逐された象徴のような気がして、ちょっと面白くない。しかもバイパス沿いには、川俣警察署、JA新ふくしま川俣支店、シルクピア川俣といった公共施設や、TSUTAYA、リオン・ドール、ツルハドラッグコメリ、ドラッグてらしま、カインズホーム、いちい、ダイユーエイトといったロードサイドショップが集中して展開している。なお川俣警察署は、この4月に福島警察署と統合されてその分庁舎となることが決定している。その現実から連想されるように川俣近辺の商圏人口はそう多くないはずなのだが、このロードサイドショップ群は供給過剰のようにも思う。しかも、リオン・ドールにいちい、ツルハドラッグにドラッグてらしま、コメリカインズホームダイユーエイトと、同種の店舗が多い。共倒れにならないことをとりあえずは祈りたい。
川俣線跡は、この辺りで再び国道から離れ、ロードサイドショップの裏側を通っている。一応二車線の道路として整備されているので、歩きにくくはない。線路跡だから当然のことと言えるが、周囲は谷底で勾配も殆どない。ただし、この辺りの水系は、川俣町大綱木に端を発し川俣町中心部を経て伊達市内を南北に貫流している広瀬川ではなく、福島市飯野町にて阿武隈川へと注ぐ女神川のものとなる。なお、女神川は川俣町と伊達市月舘町との境にある女神山(599メートル)に端を発し、女神の名はこの辺りに多く伝説を残している小手姫に因んでいるという。
その女神川の本流が近づいてきたところで川俣線跡は主要地方道川俣安達線に合流し、福島市飯野町大久保へと入る。前回の散歩帰りに乗ったバスが通る県道の旧道は、川の対岸を並行して通っている。その際、沿道に新興住宅が多いのが気になったが、対岸から見ても確かにその通りで、大久保小学校を挟んで東側に2ヶ所、西側に1ヶ所、小規模な新興住宅地が造成されていた。周辺にはコンビニやスーパーもあるから、居住環境も悪くないのだろう。
小学校の前で、新旧の県道は平面交差する。旧道の沿道は飯野の外延の住宅地、私が歩いている現県道はその裏口が延々と続く景観となる。道路にとっては沿道が裏口だらけというのは困りものかもしれないが、その風情がある意味線路跡らしいとも言える。
そんな景色を1キロほど歩くと、川俣線唯一の途中駅であった岩代飯野駅の跡地に着く。現在は公民館やバス停、物産館が設けられており、今なお飯野の拠点としての機能を有している。かつて駅前広場だったであろう一角に目をやると、静態保存されたSLがあり、駅前旅館の役割を担っていたとおぼしき旅館が建っている。そう言えば、岩代川俣の駅前にはこうした施設はなかった。
駅前通り」を歩き、飯野の中心商店街へと歩を進める。東邦銀行飯野支店はこの一角に建っている。ATMにて入金。これで訪問店舗が二桁となったので、預金の残高もキリ良く10,000円と相成った。なお、通帳末尾の端末記号・店番欄の記載は「2112」。端末機号は梁川(110)、川俣(111)に引き続き、3支店連続で「2」となる。
町域の北端に位置する千貫森にUFO目撃情報が多く残る影響で「UFOの里」のまちづくりを推進しUFOを模した街灯や宇宙人をかたどった石像があちこちに建っている不思議な雰囲気の商店街であるが、今の時期は多少趣を異にしている。各商店の店頭で思い思いのつるし雛が飾られているのだ。「つるし雛まつり」と銘打ったこのイベントは福島市編入された一昨年から開催されており、飯野の新名物となりつつある。昨年は一万人のギャラリーを集めたそうだ。
商店街の店頭に雛人形を飾ろうという動きは近年とみに盛んであり、福島県内では喜多方市の「ひなの蔵めぐり」、桑折町の「桑折宿雛めぐり」などのイベントが見られるが、つるし雛とは珍しい。つるし雛の習慣は山形県酒田市の「傘福(笠福)」、静岡県伊豆稲取の「雛のつるし飾り」、福岡県柳川市の「さげもん」が知られるそうだが、これらの地域と関連性が薄い飯野でつるし雛をやろうという姿勢が見られるのを興味深く思う。UFOといいつるし雛といい、飯野は進取性に富む町なのだろう。このまま個性的な町であって欲しい、行政的には編入されてしまったが心意気まで福島市に取り込まれないで欲しいと強く願う。
商店街を抜け、再び川俣線跡へと入る。岩代飯野駅以西の廃線跡は県道その他の舗装道路ではなく、未舗装の細道。一瞬私道かと思い躊躇するが、立ち入りを禁ずる旨の標識は特になかったので、思い切って先へと進んでみる。そんな道なので一部区間では処女雪を踏みしめる仕儀になるなど通行には若干苦労したが、現役当時の雰囲気は味わえた。
ただし、阿武隈川の河畔に建っている日特エンジニアリングの工場付近から先は、阿武隈川の鉄橋が撤去され、封鎖されたトンネルが残るなど、廃線跡めぐりには困難が伴う。並行して通っている県道福島飯野線を歩かざるを得ない。起点に近づいているのにどうしてだろうと思うが、地形的にみても、川俣線の沿線は岩代飯野以東がほぼ平坦なのに対し、以西は起伏が激しい。
そんな訳で、峡谷をなしている阿武隈川を渡ると、登り坂に差し掛かる。終盤にきての勾配に、息が上がり、眼鏡も曇る。喉も渇く。そう言えば、散歩スタートから3時間が経過しようとしているのに、出発以来飲み物を一切口にしていなかった。そんなになるまで喉の渇きに気がつかなかったのは、いかに散歩に集中していたかということか、あるいは地形に起因する歩きやすさの差異ゆえか。
国道4号線をオーバークロスし、松川駅に到着したのは12時13分。散歩スタートから3時間10分後のことだった。かつて川俣線が分岐していただけあって構えの大きい駅だ。次回の散歩は、ここから二本松支店(113)を目指すことになる。