2010年8月6日 ~東邦銀行支店巡礼(27) 大槻支店・新さくら通り支店・郡山北支店(前半)~

前々回、前回に引き続き、今回もまた、郡山市中心部を歩くことになる。
訪れるのは、大槻(218)、新さくら通り(219)、郡山北(220)の各支店。歩く範囲はほぼすべて市街地の中となる。特にあさか野バイパスの西側に位置する大槻はクルマでの来訪経験もあったかどうか、という状況だから、来訪が楽しみだ。
で、いつもの散歩だと、朝4時半に起床して桑折駅発5時41分の始発電車に乗り込む…という文章が続くのであるが、今回はそうはならない。この電車に乗ってしまうと、散歩開始場所の郡山駅に6時53分着となり、結果、大槻支店にも早く着きすぎてしまう可能性が高いのだ。郡山駅から大槻支店までは6キロ強の距離だから、私の歩くペースだと、恐らく8時過ぎには着いてしまうだろうか。ATMコーナーが開く8時45分まで何をして暇をつぶせばよいのか、頭を抱えること必至なのである。
従って、今日はちょっと変わった方法で、郡山までアプローチしてみた。
まずは、桑折駅発7時11分の上り電車で出発。この電車にそのまま乗っていれば8時23分には郡山駅に着くのだが、7時27分着の福島駅で下車する。
向かった先は、新幹線の乗り換え改札口。ここで福島駅発7時40分のMaxやまびこ・つばさ102号に乗車するのだ。早朝散歩を始めて5年目で初の試み。特急料金が840円かかってしまうが、郡山駅には鈍行利用よりも27分早い7時56分に到着する。これならば、大槻支店に着く時間帯も、9時を少し回ったあたりになるかと思う。
新幹線に乗車。運良くMaxの2階に空席があったので、座る。高架の線路からの眺めはやはり地上の東北本線とは違い障害なく遠くまで見渡せるが、トンネルが多いのが新幹線の難点。ちょっと走るとトンネルでは外を眺める目にも気合が入りづらい。仕方なく、車内を見渡す。座席に備え付けられた小冊子「トランヴェール」や周囲の旅行客や出張客の姿を眺めながら、しばしの旅行気分に浸る。
郡山駅には定刻通り、7時56分に到着。昨日から明日にかけて郡山うねめまつりが開催されているからか、うねめの絵が描かれた沢山の提灯が、改札口で出迎えてくれていた。
ただし、祭りが開催中という雰囲気は、駅前広場や街中からはまだ感じられない。多分お昼までには整備するのであろうが、現時点では普通の朝の風景。通勤通学客が行き交う中を、フロンティア通り、昭和通り(国道4号線)と進む。
ほどなく、文化通りとの交差点に差し掛かる。この通りは国道49号線以西は主要地方道郡山湖南線と名を変え大槻支店付近へと一直線に続いている最短経路。沿道にかつて郡山支店池ノ台出張所(217)、菜根支店開成出張所(221)と二つの有人出張所があったこともまた、この通りを歩く理由の一つである。
その文化通り、昭和通りから前々回の散歩でも脇を通った郡山市民文化センター前までの300メートルほどの区間は、文句のつけようがないほどの立派な通りである。片側2車線、しかも歩道はカラータイル舗装で、電柱は地下化され、代わりに立派な街路樹と瀟洒な街灯が立ち並んでいる。街灯には「楽都 郡山」のフラッグ。まさに郡山市を代表する街路と呼べる風景だ。
ところが、ここから先が、どうもおかしくなっている。まず、歩道から瀟洒な街灯が消え電柱が現れる。まあこのぐらいはいいさと坂を登り右手に展開する麓山公園や1924年の市制施行を記念して建てられた郡山市郡山公会堂などの風景を見ながら歩いていたのだが、気がつくと歩道がただのアスファルト舗装へと変わっていた。
町名が麓山から鶴見坦へと変わると、今度は車道が2車線に減員。更に街路樹も、昭和通り寄りに比べるとずいぶんと貧相なものになる。この辺り、沿道は住宅地であり通りの名前に似合うような文化施設の類は存在しないが、西へ歩くごとに段階的に「普通の道路」へと転落していく様は、どうにも納得がいかない。車線については致し方ない面があると思うが、同じ通りの名を冠するならば、沿道施設もまた統一せねばなるまいと思うのだが。
環状線との交差点を渡り、鶴見坦から開成に入ると、ついに街路樹まで消え失せた。このまま大槻方面へと向かえば歩道やセンターラインさえも消え失せ隘路と化してしまうのではないかとの不安を覚えながら、国道49号線を横断し、主要地方道郡山湖南線へと入る。
が、予想に反して、国道49号線からあさか野バイパスにかけてのこの道は、歩いていて気持ちの良いものであった。沿道にある安積高校、更に細かく言えば、1889年に建てされた擬洋風建築の旧校舎、現在は安積歴史博物館として利用されている建物が、通り全体の景観をもギュッと引き締めているような感じがする。より良い道路景観の形成には沿道にシンボリックな建物が必要という図式の見本とも言えよう。その点では、鶴見坦や開成二丁目辺りにもそのような建物があれば、文化通りの竜頭蛇尾ぶりもだいぶ改まるのではないかと思う。
景観といえば、安積高校から更に西の台新へと進むと、台新せせらぎこみちの案内板があった。前回の散歩で歩いた西ノ内せせらぎこみちと同種の遊歩道で、開成山公園の南端から台新へと延びている。今回の散歩ではこちらの道を歩くチョイスもありだったかなと、少し後悔。
が、郡山湖南線の方も、あさか野バイパスをアンダークロスし更に500メートルほど西のコスモス通りとの交差点に差し掛かるまでは、比較的整備状況が良い。沿道には新興住宅地が広がっているから、区画整理に伴ってリニューアルされたものと思われる。なお、コスモス通りを間近で目にするのは初めてだったのだが、郡山市街西端における南北交通軸として機能しているようで、2車線の道路にしては意外に交通量が多い。ロードサイドショップも、ある程度張り付いているようだ。
ここを過ぎるとようやく大槻の町、ということになるのだが、私のやる気を削ぐかのように、片側の歩道が消え失せる。文化通りを歩いていた時に抱いていた疑念が現実になってしまったが、沿道の住宅地に妙な「味」を感じるのが救いといえば救いだ。個々の家屋自体は新しかったり古かったりと混在しているのだが、庭に木が植わっている家が非常に多いのだ。つまり、たとえ家屋が新しくとも敷地自体は古くから居住者の一族が所有していた訳で、それはひいては大槻自体が古くからある程度の町場として発展していた証でもある。
昔の大槻はどんな町だったのだろうと思いを馳せながら、先へと進む。下町、上町とかつての中心集落とおぼしき地域を過ぎると、主要地方道郡山矢吹線との交差点。大槻支店は、この交差点を右折し300メートルほど進んだ先にある。時計を見ると、9時を回ったところ。ほぼ予定通りのタイムスケジュールで、支店に立ち寄るにはいいタイミングになっていた。
下町や上町よりも商店の密度がやや高い感のある殿町、原町と歩いて、大槻支店に到着。小規模な支店で、店内のATM機は2台しかない。各店のATM機の台数まではいちいち確認していなかったが、2台しかなかったのは郡山市内の支店では郡山大町支店(202)以来だったか。
入金を済ませ、店を出る。のどが渇いたので、近くの自販機でジュースを購入。今日も真夏日が予想される好天。水分補給は必至だ。
300メートルほど北に歩き、大槻中学校前の三叉路を右へと進む。しばらく歩くと、右手に見えてくるのが、陸上自衛隊の郡山駐屯地。現在住宅地の只中となっている地域にこれほどの土地を確保できたのはいつの時代だろうと思わせるほどの広さだが、調べてみると、第二次世界大戦中この場所に海軍の飛行場があったとのこと。となると、大槻の町の発展も、軍郷としての要素が強かったのかもしれない。
もっとも、その名残は駐屯地の他、今歩いている道路に残っているに過ぎない。実は、この道路をまっすぐ進むと、かつて「軍用道路」と通称されていたうねめ通りへと直結するのだ。
このうねめ通りの存在に見られるように、第二次世界大戦中は、大槻だけではなく当時の郡山市を中心とした一帯が、軍都、軍郷としての性格を有していた。飛行場は大槻の他に阿武隈川東岸に位置する現在の郡山中央区行団地内と日大工学部キャンパス内の2ヶ所に設けられていたし、現在も当時と同じ場所で操業を続けている富久山町福原の日東紡郡山駅東口の保土谷化学工業の工場は、軍需工場として稼働していた。
その結果、当時の郡山市周辺は、郡山市福島県下第一位の人口を有するようになる(1935年国勢調査)他、隣接する冨久山(1937年)、大槻(1940年)、永盛(1943年)といった自治体が相次いで町制施行するなど都市としては発展の一途をたどっていたのだが、反面、1945年4月12日に保土谷化学工業の工場や郡山駅を中心とした一帯が米軍の空襲を受け実に460人の犠牲者を出すという不幸にも見舞われてもいる。
こういう出来事は、興味を持って調べてみないとなかなかわからない。というのも、現在の郡山市には、先述した軍都、軍郷であった名残もそうだが、空襲やそれへの復興を伝える公園やモニュメント類が一切整備されていないからだ。今更ながらの感はあるが、小規模なものでもいい。青森市平和公園仙台市戦災復興記念館のような施設があればいいな、と思う。