2010年8月19日 ~東邦銀行支店巡礼(28) 郡山東支店・須賀川東支店・鏡石支店(前半)~

7月下旬から8月上旬にかけて頻繁に散歩に出掛けていたものの、仕事が忙しかったり休日が所用でつぶれたりして、8月6日を最後にすっかりご無沙汰となってしまった。2週間近く間隔が開いてしまうと、どうにも「散歩勘」が鈍ってしまうような気がしてならない。
これを取り戻すために、8月下旬は思い切って3度の散歩機会を設けることにした。今日はその1回目。前回の終点である郡山駅東口をスタートし、郡山東(222)、須賀川東(223)、鏡石(224)の3支店への訪問を予定している。
多少時間はかかると思うが、上記3支店は、是非とも今日中に歩き通したいと考えている。なぜなら、鏡石支店が、1月13日に東邦銀行支店巡礼を始めてから区切りの50店舗目となるからだ。
現時点における東邦銀行の店舗数は、昨年開設されたインターネット支店(730)を含め福島県内外合わせて114店舗。だから50店舗はその半数にも満たないが、7ヶ月で節目を迎えるというのは、手前味噌だがすさまじいペースだと思う。
ちなみに、郡山ブロック内の全店舗を踏破すれば、訪問店舗数は56。半数にわずかに満たない。思い切って、今年中に白河ブロックに足を踏み入れようか。東北本線沿線にある白河(301)、矢吹(302)の両支店なら訪問可能だし、訪問店舗数も58となるし… ここ数日、そんなことを考えている。
 
前日22時過ぎに就寝したお陰で、今朝は目覚めバッチリ。4時半に起床した。
とは言うものの、外はまだ暗い。8月も後半に入ると、ずいぶん日が短くなるものだ。
身支度をし、いつものように、桑折駅発5時41分の始発電車に乗車。ただし、このまま郡山駅まで乗り通さずに、5時54分着の福島駅で下車。駅前のコンビニで立ち読みなどしながら時間を潰す。
どうしてこんな仕儀になってしまうのかというと、最初に訪れる郡山東支店のATM営業時間が微妙に影響しての結果である。郡山駅から徒歩30分程度の場所にあるこの店のATMは他店舗よりも早く8時には開くのだが、始発電車にそのまま乗ってしまうと郡山駅には6時53分に着いてしまい営業開始まで時間を持て余してしまう。かと言って桑折駅で乗る電車を1本遅い7時11分発にしてしまうと郡山駅着は8時23分となりATM8時スタートのメリットを有効に使えない。前回のように新幹線を使うのもお金がもったいないし、いろいろ検討した結果、福島駅を6時53分に発つ黒磯行の電車に乗った場合、郡山駅着が7時41分となり8時少し過ぎには郡山東支店を訪れることが可能という結論になった次第なのである。
とは言うものの、福島駅近辺で1時間近く暇を持て余すというのは、ちょっともったいない気がする。桑折駅を6時台半ばに発車する上り列車があれば良いのだけれど。それより何より眠い。福島駅に到着した電車に乗り込むと、早速寝入った。電車は定刻通りに出発。一度目を覚ますと金谷川駅を出たところ。再び寝入って目を覚ますともう日和田駅であった。おお、危ない危ない。このまま三度睡眠モードに入ってしまうと、白河夜船で文字通り白河へ、などという冗談みたいな事態になりかねない。慌てて座席から立ち上がり、郡山駅までの時間をやり過ごす。
7時41分、通勤通学客でごった返す郡山駅に到着。ここから連絡通路を渡って東口へと歩くのだが、プラットホームが尽きた後も何本も側線が敷設されているため、距離が異常に長い。東口の駅前広場に出た時には、もう7時47分となっていた。
専門学校やビジネスホテルが建ち並ぶ一角を通り抜け、東部幹線を南下する。沿道の方八町や芳賀といった地域は、ロードサイドショップもあるけれど、美術館通りとの交差点付近に比べると多少古びた雰囲気だ。帰宅後に調べてみると、方八町界隈では終戦直後に土地区画整理事業が行われたとのこと。道理で「昭和」の匂いを色濃く感じた訳である。
古くから開けた地域であるせいか、大東銀行や福嶋銀行が、支店を構えている。東邦銀行の支店がないのが不思議なぐらいだ。ただし、この地域のすぐ南、そのものズバリ「昭和」という地域には、かつて東邦銀行の昭和支店が存在していた。古い地図で確認すると東部幹線に面していたらしいのだが、歩いてみても、跡地がどこにあるのかは分からずじまい。時の流れは残酷だ。
なお、郡山東支店と昭和支店との関係は、前回の散歩で訪れた新さくら通り支店(219)と同じくかつて存在していた亀田支店の関係に似ており、「東邦銀行五十年史」の記述や店舗コードから、昭和支店が移転、改称して郡山東支店になったと推察される。
その郡山東支店は、昭和から1キロほど南の小原田三丁目にある。小原田は奥州街道(県道須賀川二本松線)の宿場町として発達した歴史を有しているが、奥州街道から東に500メートルほど離れた東部幹線沿いは、田畑も多少交じった新興住宅地。どうしてこんな所に郡山東支店が設けられたのか不思議に思うほどだが、恐らくは、東部幹線から200メートルほど東を流れている阿武隈川を挟んだ対岸に郡山中央工業団地があるからだろうと思われる。ATMが8時から開いているのも、工業団地の影響によるものかもしれない。
山東支店に着いたのは、8時10分過ぎのことだった。連絡通路でのロスはあったが、それ以外はほぼ予定通りのタイムスケジュールだ。
店内に入る。東邦銀行の店舗はどこもギンギンに冷房が効いているイメージがあったのだが、この店は涼しさを全く感じない。どうしたことだろう。今日の最高気温は30度を下回ると天気予報で言っていたから、冷房も多少ケチっていたのかもしれない。とにもかくにも、これで48店舗目の訪問となった。
店を出て、東部幹線を更に南下。ただし、郡山中央工業団地への道が分岐する辺りから2車線となり、幹線道路らしさは若干薄らぐ。また、右手には東北新幹線の高架橋、左手には阿武隈川の堤防が近付き、沿道の範囲も狭小になってきている。
この状況を保ったまま東部幹線は国道49号線と交差し、郡山貨物ターミナル駅の東側、笹原川を渡る手前で奥州街道と合流するのであるが、私はそこまでは歩かず、国道との交差点を左折し、金山橋を渡って阿武隈川の東岸に出ることにした。金山橋から1キロほど南、田村町徳定にある日本大学工学部の前を通ってみたかったのである。郡山市内の大学に関しては7月21日に奥羽大学、8月6日に郡山女子大学の前を通っているので、日大工学部前にも立ち寄らなければバランスが悪い。なお、日大工学部は1947年の設立であり、郡山市内の大学では一番の老舗でもある(ただし、設立当初の自治体名は田村郡守山町→田村町であり、郡山市域になったのは1965年のこと)。
金山橋を渡った直後の信号を右折し、阿武隈川沿いの道路を南下する。日大工学部に通じていることから、日大通りという通称もあるようだ。右手は小公園的に整備された河畔、左手は住宅地という景観がしばらく続く。この辺りは、住所的には郡山市田村町。7月10日の散歩で通過した田母神、栃山神、谷田川、守山といった地域も同じ田村町のはずだが、雰囲気が極端に違う。
なお、日大通りは、始終阿武隈川の東岸を通っているものの、一部区間で対岸の地名である安積町日出山(ひでのやま)を経由している。地図で見ると阿武隈川の東に河跡湖らしきものがあり安積町日出山はその西側に位置していることがよくわかるのだが、日大通り沿いを見ただけでは河跡湖がどこにあるのか判然としない。
しばらく歩くと、右手に並行していた阿武隈川の堤防が沿道から多少離れ、左手には日大工学部のキャンパスが現れる。取り立てて特徴めいたものはないが、終戦直後からこの地に根を張っているキャンパスなだけに、構内の一部の建物や木々の佇まいに、年季や風格めいたものを感じる。我が母校の福島大学福島市中心部に散在していたキャンパスを1979年に郊外の金谷川に移転させた経緯を有するため、今なおキャンパスからはそういった雰囲気を感じ取ることができない。だから、少し羨ましく思う。もっとも、日大工学部の敷地は、前回の散歩で訪れた陸上自衛隊郡山駐屯地と同じく、第二次大戦中は海軍の飛行場として利用されていたとのこと。ひょっとしたら、キャンパスが醸し出す風格は、軍隊より引き継がれたものなのかもしれない。
日大工学部の敷地を過ぎると、ごく普通の住宅街。ただし、東北新幹線の線路が阿武隈川を渡ってすぐ近くまで迫ってきている。全線が高架橋の新幹線は、阿武隈川ほどの大河もお構いなしでスイスイ渡ってしまうから、ある意味恐ろしい。
安積永盛駅方面に通じる永徳橋の袂で日大通りが途切れ、ここから先は、隘路だらけのゴチャゴチャした住宅地となる。ただし、この辺りも土地区画整理事業の計画はあるようなので、そう遠くない将来、大きく姿を変えている可能性はある。
数分歩くと住宅地を抜け、田んぼの中へ。まっすぐに延びているあぜ道を南に1キロほど直進すると、7月21日にも訪れた御代田の集落に出る。前回の来訪時は歩道が整備されていない県道田村安積線をひたすら歩いたので景観に目を配る余裕はあまりなかったのだが、今回は裏通りも含めてチェック。典型的な農村集落であったが、中町、古町、田町など、「町」のつく小字や、舘、外城など城郭の存在を匂わせる小字が妙に目立つのが気になるところ。
これも帰宅後に調べてみると、御代田には、田村氏の支城・星ヶ城があったのだそうだ。それを示す案内板は、果たしてあったかどうか。私が見逃していただけなのかもしれないが、守山藩の存在や南北朝の戦乱で南朝方の拠点となった宇津峰城など、田村町の歴史遺産の多くは郡山市からそれにふさわしい扱いを受けていないような気がする。例外は、近年史跡公園として整備された大安場古墳群ぐらいであろうか。