2010年8月22日 ~東邦銀行支店巡礼(29) 郡山荒井支店(前半)~

8月21日の夜は、慌ただしかった。
仕事が残業となったため、午後10時に帰宅。入浴、夕食を済ませた後妻と歓談していたら、あっという間に12時近くになっていた。前回の散歩の日記がまだ終わっていなかったので、急いで執筆。やっつけ仕事になってしまったが、なんとか脱稿したのが午前2時のことであった。
こんな状況だったから、散歩を予定している22日の朝はきちんと起きられるはずがないだろうと思った。それならそれで構わないと、妙に開き直った気分で床に就く。
 
22日の朝。
信じられないことに、目覚まし一発、4時50分に目が覚めた。仕事の日はなかなか布団から這い出せない日も少なくないのに、道楽の時はどうしてこうも楽に起床できるのだろうか。自分のドーパミンの分泌状況が異常なんじゃないかと驚き呆れてしまう。
さて、今回の散歩で訪問するのは、郡山市南部にある郡山荒井支店(225)。前回の散歩で郡山駅から鏡石支店(224)に歩いたのに、とんぼ返りで郡山に戻る形になる。前回の散歩はわずか3日前のことだから、来た道を単純に戻るルートは採りたくない。
いろいろ検討した結果、須賀川市中心部から郡山市安積永盛駅付近までは奥州街道を通るものの、それ以外の区間は東へ西へと奥州街道から大きくぶれるルートとなった。歩行時間は、恐らく前回の歩行時間(3時間26分)を大幅に上回ることが予想される。
今回もまた、桑折駅発5時41分の始発電車に乗車する。福島駅でも郡山駅でも降りずに乗り通し、7時18分に鏡石駅着。この駅は鏡石町商工会が駅業務を委託されているはずだが、切符を回収したのは車掌であった。7月6日の散歩スタート時に下車した菅谷駅と同じスタイルである。
前回の散歩では時間に余裕がなかったので、この機会に改めて駅周辺を見回してみる。駅舎の塔屋には鐘、駅前広場にはオランダ風の風車のオブジェ。今から100年ほど前、駅の東方にある岩瀬牧場でオランダから乳牛と農機具を購入した際、友好の印として鐘を贈られたことが、鏡石が鐘やオランダを強く意識する契機になったといい、毎年10月には国際化オランダ祭りなるイベントが開催されるほどになっている。
また、駅前広場を見ると、5本の道路が放射状に延びているのが非常に印象的だ。牧場のある町にふさわしく西欧的な雰囲気があり、規模は全く違うが東急東横線の田園調布や日吉、中央線の国立辺りの駅前を彷彿とさせるものがある。
その道路の右端、東北本線の線路に沿ってまっすぐ北に延びる道を歩き、まずは岩瀬牧場を目指す。沿道は新興住宅地。どこかの家で目覚ましがけたたましく鳴り響いている。今は日曜の朝7時過ぎ。夢の中にいる人は少なくないであろう。
300メートルほど歩くと、踏切に突き当たる。この踏切を渡れば岩瀬牧場方面に出られるので付近の電柱には「牧場通り踏切」の表示が掲げられていたが、これはあくまで通称。正式名称は「開墾道踏切」という。開墾道は、明治天皇の勅命により岩瀬牧場が開設された頃に敷設された道なのであろう。ほぼまっすぐに東へと延びている。
岩瀬牧場に通じる道なので開墾道の沿道は牧草地か畑じゃないかと想像していたのだが、現実はまるで違っていた。右側には一面の田んぼ、左側には農家の敷地が隙間なく続いている。一軒一軒の農家の佇まいは広い敷地を生垣で囲った立派なものが多いのだが、これが障壁となって遠方の眺望が全くきかないのが珠に傷といったところ。
単調な風景がしばらく続き、そろそろ変化が欲しいなと思っていたら、沿道の両側が桜並木となり、岩瀬牧場の敷地が現れる。牧場の営業時間は9時なので敷地内に入ることはできないのだが、並木道が良い。大きく育った桜が形作ってくれた木陰で、しばしの涼を味わう。これだけでも、訪れた甲斐があったというものだ。
牧場の敷地を通過すると、次に現れるのは、岩瀬農業高校の敷地。中通り中部では唯一の農業高校である。1975年までは須賀川市並木町にあったというが、隣に岩瀬牧場というロケーションや広々とした敷地を見ると、移転は正解だったように思う。
高校の敷地を過ぎると、沿道は右も左も一面の田んぼに果樹園少々という風景がしばらく続く。人家も雑木林も殆ど見られない、一面の農地。見た目は鮮やかだが、朝日が既に高く昇り地面を容赦なく照りつけているので、歩くのは少々難儀かもしれない。なお、この辺りは鏡石町と須賀川市の境界にあたるが、今歩いている道路自体が境界線の上を通っているせいか、境界を示す標識の類は見られない。
だから、須賀川市に入ったと認識するのは、堂々とした4車線の国道118号線バイパスを渡る辺りから、ということになる。渡った先からは人家も増え、市街地らしい風景が展開するようになる。
ここからは須賀川中心市街地まで歩き、奥州街道を北上する予定を立てている、アプローチとしては、六軒団地を経由し中心市街地の南端にある大町に出るルートを考えていた。沿道に特段の名所はなさそうだが、須賀川市出身のマラソンランナー・円谷幸吉の生家前(2006年までは円谷幸吉記念館として一般公開されていた)を通るようだ。
昨日開催された釈迦堂川の花火大会もそうだが、須賀川には観光資源になり得る素材が結構多いようには思う。観光スポットとしては牡丹園や乙字ヶ滝、翠ヶ丘公園があるし、「おくのほそ道」では松尾芭蕉が八日間も長逗留した記録が残っている。円谷といえば、「ゴジラ」「ウルトラマン」など多くの特撮作品を残した円谷英二の出身地であるし、そもそも須賀川の街自体が、戦国時代は城下町、江戸時代は宿場町として発展してきた歴史を有している。が、須賀川の街を歩いていると、どれもこれもありすぎるが故に逆にピントが絞れていないというか、どういった街を目指したいのか迷いがあるように感じる。円谷幸吉にしても、存命ならば今年で古希を迎える。だから何か記念のイベントがあってもいいように思うのだが、そのような気配は見られない。
だから生家前だけでも通っておきたいなと思っていたのだが、どこかで道を間違えたのか、全然見当違いの方向を歩いてしまうことになる。どうやら市街地の東端を北上していたらしく、気がついたら国道118号線を渡り、県道母畑須賀川線へと至っていた。
ありゃりゃ。ちょっと困った事態になってしまったが、この県道自体は毛糸屋、豆腐屋と建物的にも業種的にも年季を感じさせる商店が軒を連ね、なかなか味のある道路である。現在では国道118号線にその座を奪われているが、かつては須賀川の東西を結ぶ基幹軸だったのだろう。
須賀川東部環状線を渡り、再び国道118号線と交差したところで県道は終わってしまうのだが、道路は奥州街道方面に延びているので、そのまま進んでみる。丘陵上に位置する須賀川らしく最初のうちは登り坂が続くが、この辺りもミシン屋(電気屋ではない)、あと廃業しているようだが牛乳屋と、個性的な店が引き続く。
そして、坂を登りきったところで「馬町通り商店街」なるゲートが登場。商店と飲み屋がゴチャゴチャと軒を並べる街並みが展開する。沿道の雰囲気も、昭和の匂いがプンプン。餅屋の店頭で打ち水をやっていたのが、非常に印象的だ。
須賀川にもこんな所があったのか! とても嬉しく思う。が、であるからこそ、馬町通りを出た先の奥州街道のつまらなさに、再び愕然としてしまう。
松明通りの通称があるこの通りのまずい所は、リニューアルによって奥州街道の歴史をきれいさっぱり捨て去ってしまったことにある。街路を整備するのは悪いことではないが、せめて三春のようにできなかったものだろうか。
唯一の救いは沿道に点在するトランスボックスにウルトラマンシリーズに登場した怪獣のシルエットが描かれていることで、ウルトラマンで町おこしをしようと意図自体は感じるのだが、どの作品に出てきた何という怪獣なのかが全く記載されていないのがマイナス点。ウルトラマンシリーズが放映されてから40年以上が経過している今となっては、この状況ではファンやマニア以外の心を掴むのは難しいのではないか。また、トランスボックスの間にウルトラマンとは全く関係のない子供の銅像が建っているのもどうかと思う。どうせやるならもっと徹底して欲しい。この通りには、須賀川市の迷いというか思い切りの悪さが、如実に露見しているように思われた。