2010年9月22日 ~自宅に帰る③ 五百川から小浜を経て二本松まで~

福島県中通りには、福島市を中心とした県北、郡山市を中心とした県中、白河市を中心とした県南という地域区分がある。
ただし、これらの境界については、特段明確になっている訳ではない。
県の行政組織上は、
 
県中=郡山市須賀川市田村市岩瀬郡、石川郡、田村郡
県南=白河市西白河郡、東白河郡
 
とされているが、県立高校の学区に関して言えば、本宮市安達郡大玉村及び二本松市のうち旧岩代町、つまり安達地方南部は、県北、県中双方の普通科高校に通学可能な共通区となっている。
また、東邦、福島、大東の県内に基盤を置く銀行についてみると、いずれも、二本松市内にある支店は福島市と同じエリア、本宮市内にある支店は郡山市と同じエリアとされている。安達地方南部は県中に分類されることになるようだ。
前置きが長くなってしまったが、今日の散歩先は、この、県北とも県中とも区別がつきにくいエリア。前回の散歩の終点・五百川駅を出発し、阿武隈川を渡って本宮市東部(旧白沢村)、旧岩代町の中心地・小浜を経由して、二本松駅まで行こうという計画を立てている。
この地域を歩いてみたところで福島、郡山両都市の影響力がどれほど伝わっているのか感じることは非常に難しいと思うが、今回の散歩では、二つほど、楽しみな点がある。
一つは、五百川駅の近くを流れる阿武隈川に架かっている平成大橋を渡ること。一昨年の散歩のメインテーマが「阿武隈川の橋を渡ること」だったのだが、河口側は岩沼市亘理町とを結ぶ亘理大橋まで制覇したものの、上流側は本宮市中心部に架かる上ノ橋止まりとなっていたのだ。従って、今回の散歩で2年ぶりに「次の橋」を渡ることになる。余談だが、東邦銀行支店巡礼で郡山ブロックを歩いた際、この橋より上流に架かる橋を、金山橋、御代田橋、下江持橋、江持橋と四つ渡っている。未踏破の橋も、いつの日か、歩いてみたいものだ。
もう一つは、小浜の町への来訪である。戦国大名大内氏の城下町を起源とし、二本松、本宮に次ぎ1901年に町制施行された歴史ある町。二本松、本宮、あと1954年まで安達郡に属していた磐梯熱海と、安達地方の主だった町場を訪れていることもあり、小浜にも是非足を運びたいと思っていたのだ。なお、散歩で小浜を訪れるのは、今回が二度目。なんと、2007年6月17日以来のご無沙汰だ。
そんな期待を抱きながら、いつものように桑折駅5時41分発の上り始発列車に乗車し、6時42分に五百川駅着。駅前に特段の集落が存在せず田んぼが広がる五百川駅前であるが、ホームは高校生であふれ返っている。彼らはいったいどこから集まってくるのだろう。ひょっとして、これから訪れる旧白沢村方面からも来るのだろうか。と考えつつ、北東へと歩を進める。
奥州街道に出、パナソニックの工場の敷地を過ぎると、平成大橋方面へと至る農免道路が分岐する。「平成」と名がつくように新しく整備された道だけあって、現役の県道であるはずの奥州街道よりも立派な道路に見える。ほどなく、平成大橋を渡る。渡ってみて初めて気がついたのだが、西岸から東岸にかけて緩やかな上り坂となっている。川面に対して平行ではない橋というのは珍しいのではなかろうか。
そんな状況をもたらしている原因は、東岸に位置する旧白沢村が、丘陵ばかりの複雑な地形を有しているからに他ならない。橋を渡る前は広々とした平地だったのに、渡った先は起伏の連続。農免道路のはずなのに沿道は雑木林ばかりで、田畑は殆ど見られない。
ただし、丘陵が途切れると遠方にチラリと田畑が見えることもある。田畑の更に遠方にビッグアイが見えるスポットもあった。五百川駅近くにある高倉宿で郡山市の風景は見納めかと思っていたのだが、思わぬところでの再会に喜ぶ。財政面ではいろいろと指摘を受けるビッグアイであるが、このようなランドマーク的な建物を造ったことは、決して間違いではなかったと思う。
さて、この辺りから、沿道には登校中の小学生が増えてくる。本宮市内の小学生といえば、5月13日に本宮まゆみ小学校の小学生と遭遇したが、確か彼らは制服着用だったはず。だが、旧白沢村の小学生は私服着用だったので、統一しなくていいのかなとも思う。9月下旬に入ったとはいえ、みんな半袖。上空は晴天で、今日も暑くなりそうだ。でも、天気予報によると、これから天気は下り坂となり、午後には雨になるそうだ。果たして散歩が終わるまで、もってくれるかどうか…
農免道路は、橋を渡った先もずっと、アップダウンを繰り返す。下りきった地点では小さな川が流れ周囲に田んぼが展開するという構図。一方、坂を登ると雑木林の中となるが、フォーシーズンしらさわという新興住宅地や、白岩西部工業団地といったスポットもみられる。こんな所に新興住宅地があるのに驚かされるが、距離的には郡山に近いので、ベッドタウンとしての適性もあるのだろう。先ほどから度々見られる道路の行先表示の案内も、「郡山」「三春」「船引」といった地名が目立つ。この農免道路もまたそのままずっと直進すれば三春に行ってしまうようなので、工場団地内の交差点で左折し、小浜があるはずの北の方角へと歩を進めることにする。
曲がった先もまた、農免道路であった。ただしこちらは、白岩川の谷底に沿っており、アップダウンはなく、周辺は田んぼ。また、歩道もきちんと整備されているので、歩きやすい。ただし、集落らしいものは殆ど見られず、商店も県道本宮常葉線との交差点付近にあるセブンイレブンぐらいしかなかった。この時点で散歩開始から1時間以上が経過していたが、セブンイレブンに寄らなかったのが尾を引き、飲料補給できない状態がしばらく続く。せめて自動販売機でもあればいいのにと思うが、それすらもない。
県道本宮白沢線との交差点を、右折。この県道は、3年前に小浜を訪れた時にも歩いたことがある。農免道路と違って、歩道がなく、歩きにくい。通過車両があるたびに、路傍に退避してやり過ごす。
しらさわ温泉なる一軒宿がある長屋の集落でようやく飲み物を購入し、更に15分ほど歩くと、二本松市との境界に差し掛かる。本宮市二本松市の境界ということにはなるのだが、本宮も二本松も元々阿武隈川西岸の地名だから、どうもしっくりこない。白沢村と岩代町の境界と言われた方が、ピンとくる。
その旧岩代町であるが、旧白沢村よりも地形の起伏が激しく、平地も少ない気がする。県道自体が谷間を通っているからか、眺望もきかない。地図で確認すると、旧岩代町内の主要道路の多くは、谷底を通っている。小浜川に沿う主要地方道飯野三春石川線や移川に沿う国道459号線は、その代表格と言えよう。そして、今歩いている県道も含めこれらの道路が集約した地点が、小浜となる。小浜もまた、小浜川の狭い谷底に展開する集落。戦国時代の産物とはいえ、よくもまあ、こんなウナギの寝床みたいな地形に町を築いたものだ。
ただ、須賀川にしろ三春にしろ二本松にしろ、福島県中通りにおける城下町起源の町の多くは、地勢の険しい場所に築かれているように思う。この現実は、その分だけこの地域における戦乱がすさまじかったことを物語るのではなかろうか。小浜に居城した大内氏もまた、最終的には伊達氏の配下となったが、一時期二本松の畠山氏や会津の蘆名氏に追従するなど、ある種マキャベリスティックな対応を余儀なくされている。
そんな事情もあり戦国時代の遺構も数多く残っている小浜であるが、現在の町並みで目につくのは、町の南側にある万人子守地蔵尊と、その周辺に点在している可愛いお地蔵さんだったりする。3年前に歩いた時には、このようなものはなかった。多少古びた感のある小浜の町並みであるが、ちょっとずつ変化しているのだ。にっこりほほ笑むお地蔵さんの姿を見ると、こちらの顔もほころんでくる。
が、上空を見ると、広い範囲で雲がかかっており、今にも雨が降り出しそう。お地蔵さんとは対照的な表情だ。先を急がねば、と思うものの、所詮徒歩移動。小浜を通り抜けて国道459号線を二本松方面へと進んだものの、作という集落の辺りで、ついに雨が降ってきた。
国道459号線は、小浜と二本松とを結ぶバス通りともなっている。雨が降り続くようならば散歩を中断しバスに乗ろうかと思い目に付いたバス停で時刻表を確認する。が、二本松行のバスはあと50分ほどしないと来ないという。沿道には雨宿りできるようなスポットもなさそうだし、とりあえず、びしょぬれの状態で歩き続ける。メガネに雨粒が付着するから、周囲の風景など見えやしない。それでも歩く。立ち止まると身体が冷えそうな気がしたから、いつもより気合が入っていたかもしれない。知らない人がこの時の私の姿を見たら、狂気じみた不気味さを感じたことであろう。
幸い、15分ほどで、雨は止んだ。通り雨だったことに一安心。メガネを拭くと、丘陵ばかりだった風景の前方が開け、阿武隈川に架かる高田橋の姿が見えた。そしてその前方には、二本松の市街地。ようやく着いたと、ここで一安心する。
市街地の更に前方に目をやると、晴天だったら見えているはずの安達太良山の頂上はさすがに雲を被っているものの、その北側に聳える笹森山の、アンテナが林立する頂上を、ハッキリと目にすることができた。
笹森山… 福島市域の山である。5月6日の散歩でその近くを歩いたことを、ふと思い出す。県中から県北に戻ってきたんだな… 感慨深いものがあった。