2010年10月5日 ~自宅に帰る⑤ 岳温泉から土湯温泉を経て福島駅まで(後半)~

国道の交差点を左折する。温泉街は荒川が刻んだ谷底にへばりつくような形で寄り集まっており、温泉街への道路は温泉街を俯瞰できるほどの高い位置から下る形となる。高原リゾートと一体になっている岳温泉とは対照的に、いかにも山のいで湯といった雰囲気だ。
温泉街に入る。宿泊施設も充実しているが、飲食店や土産物屋も結構多いように思う。そう言えば、土湯はこけしの産地であった。こんにゃくや山菜の産地でもあり、これらを取り扱う店も多いようだ。
温泉街の北側に、向瀧という大きなホテルがある。今年破綻した磐梯熱海の磐梯向滝と関連があるのだろうかと思うが、こちらは今日も元気に営業中。ちなみに、会津若松の東山温泉にも、向瀧という老舗の木造旅館がある。そんな福島県内では由緒ある(?)名前を有する向瀧の建物を見ると、壁面や周囲の街灯には、どういう訳かベガルタ仙台のフラッグが掲げられていた。後で調べてみると、ベガルタの選手が福島市内で数日間ミニキャンプを張っており、土湯温泉に宿泊しているとのことらしい。
こんな具合に温泉街を15分ほど散策してから、国道へと戻る。土湯から北東に5キロほどの所に位置する荒井までは、旧道も新道もない一本道。しかも、温泉街の東側入口に架かる産ヶ沢橋を渡ると、歩道のない急な下り坂に差し掛かる。路肩のスペースはある程度確保されているので歩きにくくはないが、せっかく登坂車線を通っているクルマが私を避けて一般の走行車線に入っていくシーンを何度も見かけると、ちょっと心が痛む。ここでもまた、自然と早足になってしまう。
下り坂が緩やかになると、左手に福島県農業総合センター畜産研究所の広大な敷地が現れ、歩道も復活する。ようやく歩きやすくなった、ようやく福島盆地に入ったと、気持ちが弾む。前方には、信夫山に抱かれた福島の街が見えている。気のせいだろうか、頂上が目の高さとさして変わらない位置にあるようだ。まだまだ先は長そうだ。
この辺りの国道沿道は基本的には田んぼや果樹園が目立つ農村風景なのだが、先述の畜産研究所やふくしま自治研修センター、福島県消防学校といった行政施設も妙に目立つ。また、沿道から多少離れているが、アンナガーデンや四季の里、あづま総合運動公園など、観光施設も点在している。これらの施設への来訪客を考慮したのか、はたまた「国体効果」のなせる業か、あづま総合運動公園へと至る道路が分岐する峠原地区以東の国道は、なんと4車線になっている。整備されるのは結構なことだが、過分に立派過ぎる道だと思う。幸い、峠原からは2車線の旧道が分岐しているので、そちらを歩いてみることにする。
取り立てて特徴は見当たらない旧道であるが、沿道にバス停がある。メインルートの座からは陥落したけれど、バス路線は旧道を経由しているのだ。時刻表を覗いてみると、1時間に2本程度バスが発着しているようだ。これは、福島市近郊としては本数の多い部類に入る。
だからであろうか。旧道をしばらく歩いていると、徐々に住宅が増えてくる。荒井の中心集落に入ると、瀟洒な集合住宅や立派な医院も見られる。荒井とその北に位置する上名倉は福島市南西部の核となる地域であり、福島市役所の支所や中学校も所在し、集落の隣接地では土地区画整理事業が施行されているほどだ。
が、東邦銀行は、現時点ではこの地域には進出していない。わずかに、国道に面したスーパーの敷地内に、ATMが設置されているのみである。だから、福島ブロックを歩いた際には、この地域と訪れる機会は得られなかった。だから、今こうやって歩けることを、嬉しく感じる次第。
荒井の集落を抜け、国道と一旦交差すると、上名倉の集落に入る。もっとも、地元では上名倉という名称はあまり使われていないようで、「佐倉」という名称が目立つ。佐倉とは1889年に佐原(さばら)、上名倉、下の三ヶ村が合併し佐原の「佐」と上名倉の「倉」を合成して命名された村名であり、現在も佐倉小学校などが所在する。また、「桜」をイメージさせたかったのだろうか、漢字ではなくひらがなの「さくら」を用いた床屋や個人病院も散見される。先に述べた土地区画整理事業区域内の町名にも「さくら」というのがある。
集落内ではあまり意識はしなかったが、この辺りでも、下り坂はまだ続いている。これまた通行量に対して過度に車線が多いフルーツラインを横断してもなお、目的地の福島市中心部はまだ眼下にある。
東北自動車道福島西インターチェンジが近付いてきた辺りで旧道は国道と一旦合流し、再び分離する。ここでもまた、バスは旧道を通っており、分離してすぐの地点には「下村」というバス停がある。先に述べた佐倉村の一部となった下村に相当する地域であるが、現在の大字名は「佐倉下」。バス停名から推察するに本来「村」まで含めてひとつの固有名詞だったと思うし、事実江戸時代の中期から末期にかけてはこの地に構えた陣屋を中心に陸奥下村藩が成立(初代藩主は田沼意次の孫・意明)した時期もあったのだが、市町村合併の潮流に翻弄された結果、妙な名前になってしまった感がある。
その下村から更に東進すると、成川、吉倉といった地域を通過する。実はこれらもまた合成地名。成川は成田村と赤川村が、吉倉は吉田村と下名倉村が、それぞれ1876年に合併して成立した村で、1889年にそれぞれ鳥川村(上鳥渡、下鳥渡、成川の各村が合併)、吉井田村(吉倉、仁井田、八木田、方木田の各村が合併)の大字となった経緯を有している。それにしても、合成地名が多いことに驚かされる。
この他にも、福島市域(旧信夫郡)には、現在も小学校名や駅名に利用されている笹谷(下大笹生大谷地)、平野(平塚、入江野、井佐野(これもまた、井野目と佐場野の合成地名))、金谷川(金沢、関谷、浅川)など、町村合併によって成立した合成地名が異様に多い。郡山市域(旧安積郡)で永盛、富久山、喜久田といった瑞祥的な旧町村名が目立っているのとは対照的である。
これらの命名の背景には当時の郡長の意向が影響しているという話を耳にしたことがあるのだが、福島市域と郡山市域との命名の違いは、ひょっとしたら、両地域の気質とも密接な関係があるのかもしれないと思う。吉倉に入り、福島西道路を横断すると沿道風景は完全に市街地へと入るのだが、旧道に接する道路は概して狭く、スプロール現象の結果都市化されたのが一目瞭然の状況。吉倉に限らず、福島市近郊は、このような場所が非常に多い。一方郡山市近郊は、富久山や富田などスプロール現象の結果都市化された地域もあるにはあるが、区画整理事業を施行して計画的に市街地を拡大させてきた感がある。
このことと地名とを絡ませるのはいささか強引とは思うのだが敢えて言ってしまうと、郡山市域においては、地名の命名においても、都市計画においても、「このような地域になって欲しい」「地域をより良くしたい」という意識が前面に出ているのに対して、福島市域においてはこの意識が総じて希薄なように感じるのだ。この村とこの村が合併するから新村名はお互いの村の名前を折衷しましょう。空いている土地があるからとりあえず家を建てましょう… どうにも場当たり感が強いし、そのことをおかしいと感じる地元民があまりいないことに、中通り北部の住民としては多少の苛立ちを感じてしまう。
戯言はこのぐらいにしておいて話を散歩に戻すと、吉倉にある福島陸運支局の前を通過したところで、時計の針が11時40分を指していた。下り坂を早足で歩いた成果もあり、予測したよりも速いペースである。これならば正午前に福島駅に着けるかなと思い、なるべく最短のルートを経由すべく、市道方木田茶屋下線との交差点を左折し、更に微温湯(ぬるゆ)街道(県道福島微温湯線)との交差点を右折する。が、荒川に架かる八木田橋を渡った先、かつて福島交通の本社があった場所にデンと建っているROUND1の前で、正午になってしまった。
このROUND1をはじめ、福島駅西口一帯には、ここ数年で中高層の建築物が一気に増えたように思う。お陰で、八木田橋からは福島駅の東側に展開している旧来の繁華街がすっかり見えなくなってしまった。その反動、反発という訳ではないのだが、八木田橋から福島駅西口までは下町的な雰囲気が残る太田町の商店街を歩いた。
結局、駅舎に入ったのは、12時05分のことであった。岳温泉を出発してから4時間56分後。正午には間に合わなかったものの、散歩時間が5時間を切ったのは想定外の出来。自分の健脚ぶりを褒めたいところであったが、気付かぬうちに身体に相当のダメージを与えていたようで、翌日、翌々日と太腿の筋肉痛に悩まされることになってしまった。