2011年1月30日 ~仙台銀行支店巡礼⑮ 八木山支店(前半)~

前回の散歩で、若林区内の店舗はすべて訪問済となった。
次に目指すのは、太白区内の店舗の制覇。現在、八木山支店(231)、太白出張所(232)、西中田支店(233)の3店舗が未訪問で残っているが、これらを2回に分けて訪問したいと考えている。
今日はその1回目。前回の散歩の終点が太白区から遠く離れた宮城野区福田町駅だったため、八木山支店を訪れるのが限界だろう。それだけでも3時間以上の時間を要するのは必至と推定される。
家族全員が寝入っている布団の中を朝5時半に這い出し、6時15分に自宅を出発。玄関先には数センチほど雪が積もっていた。福島で積雪があっても仙台では何にも積もっていないケースが多いし今日もそのパターンだろうと高をくくっていたのだが、電車に乗っていざ仙台駅に着いてみると、仙台市内もまた数センチの積雪。これは誤算であった。今回訪れる八木山界隈は、仙台駅より100メートルは高い位置にある。10センチ程度の積雪は覚悟しなければならないかもしれない。
仙石線に乗り換えて、7時59分に福田町駅着。前回は橋上駅舎の南側から構内に入ったが、今日は北側からスタートする。目の前にいきなり登場するのが、代々木ゼミナール仙台校の学生寮。同校が仙台に進出した1980年代前半からこの地に所在している。ちなみに福田町の寮は男子寮であり、女子寮は南仙台駅の至近に所在する。
改めて間近で見ると立派な建物だなと思うが、よくよく考えてみれば、学生寮が建設されているということは、少なくとも宮城県と境を接する県には代々木ゼミナールの校舎を開校する意思がないことを意味している。仙台市内には代々木ゼミナールをはじめ、河合塾駿台予備学校と俗に言う三大予備校のすべてが進出しているが、東北地方全体を通してこれらの予備校が進出している地域は、実は仙台だけだったりする。予備校などなくたって理論上では受験勉強は可能であるが、学習環境の面で仙台とそれ以外の東北地方諸地域との間で著しい不平等が生じているような気がしてならない。
比較的新しい住宅が建ち並ぶ一角を通り抜けると、田んぼが広がる一帯へと出る。もっとも、今日は雪原と化しているのであるが。前回歩いた沖野や荒井に比べると規模こそ小さいが、仙台バイパス仙石線七北田川沿いの住宅地、東北本線を四辺とした台形状の広い区画が一面の田んぼであり、仙台市中心部のビル群や仙台バイパス東北新幹線の高架橋、更にこれらの背後に控える丘陵と、かなり広い範囲が見渡せる。
ただし、よりによってそのド真ん中に、私の母校が移転している。生徒数に比して過度に立派な校舎他諸々の施設が、田んぼを潰して建設されている。私は書類上この学校のOBであるが、何だか違う学校のような気がする。背後遠くにかつての校舎所在地に建っている仙台トラストタワーが見えるだけに、むかっ腹さえ立ってくる。でも、今となっては、母校は仙台の更なる発展のために「地の塩」となったのだと、無理矢理自分を納得させる他はない。そして母校の今後の躍進を、別に信心もしていない神に祈るのであった。アーメン。
仙台バイパスをアンダークロスすると、田んぼはすっかり消え失せ真新しい住宅地へと入る。2000年代に入ってから開発された新田東の住宅地で、事業主体が仙台市ということもあってか、元気フィールド仙台という市のスポーツ施設が新設されJA仙台の本店が移転しているのが特徴だ。また、一戸建よりも高層住宅の割合が高い。2004年に仙石線小鶴新田駅が開業してから開発のスピードが急速にアップしたようで、ちょっと見ないうちに高層住宅が雨後のタケノコのごとくニョキニョキ生えている。
が、新田「東」と名付けられているからには、名前の元となった「新田」がその西にある訳で、こちらは多少古ぼけた感のある住宅地となっている。ただし、道路の区画自体は短冊状で、比較的整然としたものとなっている。新田およびその北側に位置する東仙台駅の周辺は終戦直後に計画的に開発された仙台近郊における住宅地の先駆けとも言える存在で、当時の地図でも現在と同じ区画割がなされていることを確認することができる。
ところで、今東仙台駅の名前が登場したが、この界隈は仙石線東北本線に挟まれており、しかも両者の間隔は1キロと離れていない。しかも双方の路線に駅があるため、駅勢圏も、新田東は小鶴新田駅、新田は東仙台駅、そしてその西側の平成(中原)では再び仙石線に戻って苦竹駅と、見事に分割されている。
1月12日の散歩で南北方向に歩いた平成を今度は東西方向に横切り、東北本線貨物線のガードをくぐると、原町に入る。宮城野萩大通り(正確にはその延長路)を渡って細道を南西方向に進み、原町本通りの商店街に入る。この通りに面した原町支店(206)を訪れたのは、11月18日のことであったか。あれからもう2ヶ月以上経っている、早いものである。
前回の来訪は晩秋だったが、今日は雪景色の中を歩く。時刻は9時を回ったところ。店舗の開店間近であり、商店主や店員がシャベルや竹箒を使って除雪作業を行っていた。ショッピングを快適に楽しんで欲しいという地域の意志を強く感じたし、非常に清々しい光景であった。
原町本通りを過ぎると、仙台城下町の枠内へと入る。原町本通りはかつての石巻街道であり、その延長路は城下町内において青葉城へと通じる東西の基幹軸となっていた。現在でも仙台駅以西においては中央通(ハピナ名掛丁クリスロードマーブルロードおおまち)のアーケード街として商業の中核地となっているのだが、仙台駅以東は区画整理の影響でかつての面影は完全に失われてしまった。
城下町の東の入口となる二十人町など、戦前から営業している店舗がつい数年前まで軒を連ねていたのに、今は一面の更地。道路自体は都市計画道路元寺小路福室線として拡張する予定があるものの現時点では未完成である。従って、除雪してくれる住民など全くおらず、歩きにくいことこの上ない。クルマで踏み固められた雪の上をソロソロと歩かざるを得ないが、一度転倒してしまう。チクショー!と思う。
しかし、悔しがっても仕方がない。一度更地になってしまったのだから、今後の街づくりに期待を寄せるしかなかろう。また開発に携わる人たちがその一点にエネルギーを傾注することで、失われた街に思いを寄せる人たちの心も多少は落ち着くと思うのだ。
12月13日に仙台東口支店(215)を訪れた時にも通った名掛丁を経由し、なんと1928年に開通したという地下歩道を通って仙台駅の西側へと出る。2008年に仙台駅北部名掛丁自由通路が完成したことに伴いこの地下歩道は御用済になったと思うのだが、どうして今なお生き残っているのだろうか。ちょっと不思議な気がする。
地下道を出る。右手にアエル、左手にパルコが聳え立ち、かつての基幹路もただの一方通行の裏道と化している。ただし、前方を見ると、ハピナ名掛丁のアーケード入口が、大きな口を開けて待ち構えていた。この名が示すように名掛丁は元々仙台駅の東西に跨って存在していた町名である。
全蓋アーケードなので雪とはしばしお別れ。これで快適に歩けると思った矢先、路面に足を滑らせてあわや転倒という仕儀になってしまう。ハピナ名掛丁の路面はツルツルの御影石。見てくれは良いが今日みたいな日の歩行には注意が必要と感じる。
愛宕上杉通を渡り、中央通支店(204)の店先を通り過ぎた辺りで、商店街名がクリスロードと変わる。こちらの路面も御影石だが、ハピナ名掛丁ほどツルツルではなく一安心。なお、この商店街の現在の町名は中央二丁目であるが、旧町名は新伝馬町(しんてんまち)と言った。現在でもその名を残す道標が路面に埋まられている他、沿道にある七十七銀行の支店名には今なお新伝馬町の名が用いられている。
東二番丁との交差点を渡ると、今度はマーブルロードおおまちと再び商店街名が変わる。路面もマーブル=大理石で、心して歩かないと再び足を滑らせかねない。この商店街の現在の町名は一番町三丁目であり大町はその西側にある町名ということになるのだが、かつてはここも大町であった。大町は仙台を代表する町人町・御譜代町(大町、肴町、南町、立町、柳町、荒町)の中でも筆頭格の町であり、仙台城下町を通じて唯一一~五丁目に細分されていた。マーブルロード大町はそのうち五丁目の部分に相当する。
一方の一~四丁目が現在の大町ということになるのだが、城下町時代は青葉城に近い順から一丁目、二丁目…と並んでいたのが現在では仙台駅に近い順から一丁目、二丁目となっており、配列が真逆になっている。そんな大町を通して歩いてみる。戦後になってすぐ南側に青葉通が開通した影響もあるのだろうか。ただの裏通りと化していた。
ただし、大町の西端・西公園通との交差点に立ち、改めて大町を見ると、大町の多少の矜持を感じることはできる。と言うのも、広瀬川に架かる大橋、更に川向こうの青葉城方面と大町とが、ほぼ一直線に結ばれているからだ。逆に青葉通は、微妙に北側へと折れて半ば強引にこの交差点へと食いつく形になっている。
なお、青葉通では、現在地下鉄工事の真っ最中。この交差点の至近にも駅ができるようだ。せっかくのケヤキ並木も、西公園の樹木も、現在は伐採されてしまっているが、工事が終わった暁には元の姿に復元してもらえるのだろうか。為政者の良識を、今は信じたい。