2011年7月1日 ~信達地方の今① 貝田から桑折まで~

いささか唐突な話だが、東日本大震災以降自粛していた早朝散歩を、本日より再開することにした。
理由は二つ。
まず一つは、先月中に子供達の通う学校の校庭の表土処理が終了し、校内での屋外活動再開に一定の目処が示されたことである。仮に校庭利用が可能になったとしても今夏のプール使用は既に中止が決定し、夏休みのラジオ体操ですら実施の判断が各子供会に委ねられている状況ではあるのだが、とりあえず一歩前進はしている。私もまた、子供達に歩調を合わせて歩み始めたいと考えた次第。
もう一つは、本日より電力使用制限令が発動され、一般家庭においても15%の自主的な節電が要請されたことである。休日だからといって自宅内で扇風機やクーラーをつけながらネットファーフィンしてクダを巻いているようでは駄目なのであって、少しでも屋外に出て自宅の節電に協力しなければならない事情ができてしまった訳だ。
まあ、いずれも言い訳である。元々「歩きたい」という気持ちは持っていたのであって、上記の事情が再開を後押しする原動力になったというのが正しいのかもしれない。
 
ただ、問題となるのは、どこを歩くのかということ。
震災翌日の3月12日に仙台から桑折まで歩いたのを別とすれば、3月9日に槻木駅から白石駅まで歩いたのが最後の散歩だったから、その続きというのが妥当な話だろうとは思う。そしてその後は、白石市から一旦桑折町の自宅に戻り、今年2月に開店した東邦銀行北福島支店を訪れた後宮城県に戻って仙台銀行支店巡礼を再開する… そういう計画を立てていた。
が、この計画は、一度御破算にした方が良いように思われる。
むしろ、震災や福島第一原発事故の影響が大きく影を落としてしまった福島県信達地方の「今」をできる限り見て歩くこと、そしてその様子をこのブログを通じて伝えることが、求められているような気がしてならないのだ。使命感などという大層なものではなくむしろ野次馬根性に類するものではあるが、「今」歩かなくてどうするのだろうという衝動が、私の中にあるのは確かだ。
 
とりあえず、今回は白石駅から桑折町の自宅へと歩くことにしよう。5時半に起床した私は、いつも通勤で利用している桑折駅発6時29分の下り始発列車へと乗り込んだ。
ところが、私の意気込みとは裏腹に、天候がおかしなことになっている。藤田駅を出る辺りまでは青空もチラリと見えるほどの薄曇りだったのに、福島・宮城の県境の峠に差し掛かる辺りから霧雨模様となり、分水嶺近くにある貝田駅のホームはしっとりと濡れていた。これは一時的なもので白石市内に入れば晴れるだろうと高をくくって北上を続けてみたのだが、私の楽観とは反対に雨脚はだんだん激しくなり、白石駅に着く頃には本降りの雨。とてもじゃないが、散歩なんてできなさそうな天候だ。
せっかく歩くと決めたのに気勢を削がれる結果に一時うなだれるが、決めたからには歩きたい。そこで、雨脚が弱そうに見受けられた貝田駅まで戻り、自宅まで歩くことにした。予定した距離の半分以下しか歩けないことになるが、仕方ない。福島県の人間は福島県内を歩けという、天からの知らせなのだろう。
白石駅で降りると間髪を入れずに上り列車がやってきた。窓ガラスには大きな雨粒が。どうやら宮城県側は本格的な雨らしい。県境を越えて通勤している者の感覚だと福島県側が悪天候なのに宮城県側は好天というケースはしばしば見られるのだが、その逆は珍しい。
7時02分、貝田駅着。駅周辺の雨は「ポツ… ポツ…」といった感じだったが、駅のすぐ南側に位置する奥州街道貝田宿の集落に差し掛かった途端に止んでしまった。とりあえず歩けそうだ。そのことが嬉しかった。
 
そう言えば、3月12日に仙台から桑折まで歩いた際は、貝田駅の待合室で缶チューハイを半ばヤケクソ気分で胃袋へと放り込み、国道4号線をひたすら南下した。暗闇の中だったし、ひっきりなしにクルマが行き交い歩道が整備されている国道を歩いた方が安全だという判断があった。現地に差し掛かると、どうしてもあの時のことを思い出す。そちらに引っ張られると散歩の印象が散漫になりそうだったので、今回はできる限り奥州街道を歩くことにする。
旧家が多い割には家屋の損壊度合いが少ない印象の貝田宿を通過すると、奥州街道(あるいは旧国道4号線)は国道4号線と交差する。この交差点にも思い出がある。国道4号線には歩道があると書いたが、厳密に言うと、貝田から国見町中心部にかけての区間には、西側に歩道が設けられていない箇所がある。逆に宮城県側の白石市越河の国道4号線は西側にしか歩道が設けられていないからこの交差点までは西側を歩いていたのだが、安全面を考えるとこの交差点で国道を横断する必要があったのだ。停電中の暗闇だし信号も作動していない、しかもここまで60キロ近く歩き通していたから脚が棒のようになっていて小走りすらままならなかったのだが、駐在所の前で2、3分小休憩した後、タイミングを見計らって何とか渡りきることができた。渡り終え周囲を見ると、前方の路傍に縁石があるのが見えた。あの先は歩道だ、助かった! と喜んでその向こうへと足を踏み入れたところなんと縁石の先は側溝になっていて、派手に転んでしまった。左手をすりむいて出血。寒さと緊張感のおかげでさしたる痛みは感じなかったのだが、ここから自宅までは怪我の具合を確認しながらの歩行となった次第。
そんな思い出にも浸りたくなかったから、交差点の先もまた、旧道を歩くことにする。沿道の多くは桃畑で、青くて小さな実がついていた。あの実には放射性物質がどのぐらい含まれているのだろうか、仮に国の基準をクリアしたとしても消費者にきちんと受け入れられるのだろうか、そんなことを考えながら、下り坂を進む。過去を振り返るのも辛ければ、先のことを考えても不安。まったく、何という事態に陥ってしまったのだろうと思う。
国見町内唯一の中学校である県北中学校の前で、新旧の道路が再び合流。自転車通学の中学生が続々と登校してくる様子が見える。ここだけ切り取れば、いつもと変わらない風景だ。
 
が、中学校前の歩道橋を渡り(ちなみに、3月12日にもこの歩道橋を渡っている)、上野台運動公園の敷地に差し掛かると仮設住宅が何軒か建っているのが見え、震災がこの町にも大きな爪跡を残したのだと思い知らされる。余談だが、「上野台」の読みは「うわのだい」だと長らく思っていたのだが、現地の案内板を見ると正式には「わのだい」と読むらしい。そんなマニアックな知識も得ることができるから、やはり散歩は止められない。
上野台運動公園を過ぎると旧道が右手へと分岐する。この道を進むと、奥州街道藤田宿をルーツとし今は国見町の中心地となっている藤田の町へと入る。貝田に比べると、屋根や壁が損壊した家屋が多いようだ。取り壊し中の家屋も散見され仮設住宅が建てられたのも納得の状況なのだが、それよりも目を引いたのが、町中の街路灯に貼られていた小学生からのメッセージ。「がんばろう! くにみ!」のタイトルで各自が思い思いのメッセージを残しているのだが、「以前のように笑顔があふれる国見町に」「前向きに頑張って元気を出して」といった類の内容が目立つ。また、これとは別に「負げねえぞ 国見!!」と力強く書かれたピンク色した商工会の幟が、あちこちで掲げられている。「負げねえぞ」と方言丸出しなのが勢いを感じさせる。国見町は老若男女力を合わせ、とにかく復旧、復興に向けて前進しようという雰囲気で満ち溢れている印象だ。こちらが励まされた気分になる。我々も負けずに頑張らねば、と強く思う。そんな感動にも出会えるから、やはり散歩は止められない。
 
藤田の町を通り過ぎ、主要地方道白石国見線との交差点を渡ると、桑折町に入る。初めて知ったのだが、桑折町内にも「負けてたまるか 桑折魂」と書かれた白い幟が掲げられている。字は基本的に黒いのだが「魂」の一文字だけが真っ赤であり、町民の気合の強さを感じる。どうやら町北端の北半田地区に限定して掲げられているようなのだが、事情を知らない人がこの界隈を通り過ぎれば、ひょっとして国見町桑折町とが対立しているのかとあらぬ誤解をしてしまうかもしれない。でもそれで良いのだと思う。国見、桑折の両町が切磋琢磨して復興具合を競うのもまた、地域全体を盛り上げる契機になるのではないかと思う。
そんな感じで桑折町内でも幟から元気を分けてもらったのだが、あろうことか雨が降り出してきた。自宅を出た時と同様に上空には青空が覗いていたから通り雨なのだろうが雨脚は結構強く、Tシャツも短パンもずぶ濡れになってしまった。ここで雨に祟られるというのも癪に障るが、自宅までの距離はあと僅か。沿道はどうせ見慣れた景色だし、小走りでやり過ごした後、自宅の玄関先へと駆け込んだ。