2011年7月19日 ~信達地方の今④ 南福島から松川まで~

東日本大震災福島第一原発事故を体験して感じたことのひとつに、福島県内における知識人層の薄さがある。何もテレビ画面にしゃしゃり出てきてどしどし意見を開陳すべきとまでは言わないが、防災関連にせよ、原子力関連にせよ、福島県内の大学に籍を置く(あるいは置いていた)知識人がマスコミから取材を受けるケースが極端に少ないことに、福島大学のOBである私は少なからぬ不満を持っている。
私が口にすべき事柄ではないのかもしれないが、大学の教官をはじめ知識人という人種は、確かに自身の研究や学生の教育に割かなければならない時間は多いのかもしれないけれど、世のため人のためになる知識をより多くの人々に提供するのもまた重要な責務ではなかろうか。表舞台に立たない彼らは一体何をしているのだろうかと疑問に思う。口下手なのか、それとも単に知識がないだけなのか。恐らく後者なのだろう。でなければ、福島県立医科大学が長崎や広島からやってきた被曝医療の専門家を副学長に急遽任命するなどという事態になるはずがない。
その長崎から来た副学長が同大学の入学式において「この大学で学ぶ君たちは、放射線について世界一の学識を身につけ、 医療の現場で実践してほしい」と語ったように、福島県内の大学も、一芸で構わないので、秀でた分野や人材を育成すべく生まれ変わって欲しい、そしてそれが福島県民が共有する知識として根づいて欲しいと切に願う次第である。
そんな思いを胸に秘めつつ、今日の散歩は南福島駅を起点に、福島県立医科大学福島大学福島市内にある大学を二ヶ所回ろうかと考えている。3.11を機に大学は変化したのか、あるいはしていないのか。敷地内をただ通過するだけでは実感するに程遠いかもしれないが、何となく、見ずにはいられなかったのである。
 
桑折駅発5時41分の上り始発電車で出発。北斗星の通過待ちのため福島駅に10分ほど停車した後、6時09分南福島駅に到着。無人の改札を通過し、外へと出る。超大型の台風6号が西日本に接近中とのことで福島県内の天気も崩れがちになっており、今すぐにも雨が降り出しそうな曇天だ。もっとも、予想最高気温は今日も30度を上回るらしく、ちょっと歩くと額に汗が滲んだ。
駅周辺のゴチャゴチャとした住宅街を真東へと進んで、国道4号線に出る。この道路を南下して、福島県立医科大学の所在する蓬莱団地方面へと向かう予定を立てている。
もっとも、南福島から蓬莱に向かうのであれば旧国道4号線奥州街道を利用しても一向に構わないのだが、敢えて国道4号線経由としたのは、東日本大震災によって沿道付近のあさひ台という住宅地が大規模な崖崩れに見舞われたという情報を仕入れていたからである。野次馬根性丸出しのルート選定で被災された方には恐縮なのだが、現場を目に焼き付けておきたかったのだ。
長々と続く坂道を登っていくと、あさひ台の現場は沿道の東側に展開していた。震災直後は土砂が国道の路面にまで被さっており福島市内から郡山方面へと向かう車線の規制が行われていたのだが、現在は土砂がある程度片づけられてクルマの通行に支障はない。とは言うものの、崖の上にあった複数の家屋が土台ごと崩れ、未だ無残な姿を晒しており、正視に堪えない光景を見せつけている。丘陵を切り開き、住宅地を開発する。高度経済成長期から現在に至るまで全国各地で普通に見られるが、仙台市郊外の丘陵上の住宅地でも東日本大震災の影響で居住不可能になった住宅が続出したことを思うと、のべつ幕なしに開発するのはいかがなものだろうかと考えさせられてしまう。
ところが、国道4号線から市道南町浅川線へと入り蓬莱団地へと入ると、被害の少なさに逆に驚かされる。瓦屋根の家屋が少ないせいもあるのだろうが、被災地の定番となった「瓦屋根にブルーシート」の光景も一切見られない。先ほど抱いた疑問も揺らいでしまうぐらいだ。そんな街並みを、通学途中の高校生や散歩中のお年寄りが行き交っている。放射線さえなければ、至って普通の「連休明けの朝」的な雰囲気だ。
蓬莱団地を過ぎ、谷に架かる医大大橋という名の橋を渡ると、福島県立医科大学の敷地内へと入る。行き交うクルマがずいぶん多いのに驚く。その大半は、どうやら学生が運転するクルマらしい。この大学へは福島市中心部から1時間に2~4本のバスが発着しているのだが、講義や実習が早朝や深夜に及ぶことがあるため、クルマ通学の学生が少なくないという。それだけ学生が熱心な証左と言えるしそのことは我々一般県民を安心させてもくれるのだが、学生や隣接する附属病院へ通院する患者のことを考えると、もっと交通の便が良い場所に移転しても良さそうなのにとも思う。
キャンパスを通り抜け、国道4号線をオーバークロスし、その西側へと出る。奥州街道(県道福島安達線)に出て5分ほど南下すると、今度は福島大学の敷地へと入る。こちらは、福島県立医科大学とは対照的に、学生の姿は殆どない。時計を見るとまだ7時半。講義が始まるのは9時のはずだから、それも致し方ない。
福島県立医科大学とは異なり、屋外に掲示板が設けられているのが、福島大学の特徴。はてさてどんなポスターが掲示されているのかなと思い眺めてみたが、大半がサークルの勧誘関係。原発関係の説明会の開催を案内するポスターもいくつか貼られていたかと思うが、数的には圧倒的に少ない。まあ学生なんてそんなものだろうと、昔日のわが身を振り返り半ば諦めの心境に浸る。原発事故に苦しむこの福島で何か問題意識を持たないと、後々就職活動で苦しむことになると思うのだが…
そんな福島大学であったが、陸上競技場だけが妙に立派にリニューアルされていて、ちょっと驚いた。川本和久監督の指導によりここ10年ほどで全国レベルの力をつけてきた陸上部、特に女子短距離選手の活躍の賜物だろうと思う。こういうこともあるから、福島大学の教官や学生には、もっともっと頑張って欲しいと、一OBとして奮起を促す次第である。
福島大学金谷川駅のすぐそばに位置しているが、散歩を切り上げるにはまだ早いので、今日は更に南の松川駅まで歩こうかと思う。
学生アパートが林立する金谷川駅前を通り過ぎ、東北本線をオーバークロスして田畑や雑木林の中の細道を南下する。すぐ脇を東北自動車道が通っている。忙しそうに行き交うクルマを横目に、当方はのんびり徒歩。こういう対比は、自分の気持ちに余裕が感じられるような気がして悪くない。
ちなみに、歩いている道路は、かつて米沢街道として利用されていた道路らしい。この街道は福島城下から福島市庭坂米沢市板谷とほぼ奥羽本線に沿う形で米沢へと至り米沢藩の参勤交代路として利用されていたことでも知られているが、江戸時代初期の寛文年間までは福島市松川町の八丁目宿が起点であり、福島市大森を経由して庭坂板谷と至っていたとのこと。
スマートICも兼ねている福島松川PAの近くで主要地方道土湯温泉線に合流し、東へと向きを変える。1.5キロほど歩くと八丁目宿を起源とする松川の商店街。規模はあまり大きくないのだが、各店舗の店頭に「福島の元気は松川から」と書かれた幟が立っており、勢いの良さを感じる。高い放射線量に悩まされている福島市だが、前々回の散歩で訪れた飯坂温泉やこの松川のように、郊外から元気な声が挙がっているのを目にすると、「そんなことでは負けてらんないぞ!」と気分を新たにさせられる。
幟に勇気をもらってのラストスパート。北芝電機の工場前を通り過ぎ、8時43分、松川駅着。