2011年7月30日 ~信達地方の今⑤ 松川から川俣まで~

現在行っている散歩のテーマは「信達地方の今」であるが、ここ数回は信達の「信(=旧信夫郡)」にあたる地域ばかりを歩いていた。
そろそろ「達(=伊達郡及び旧伊達郡)」に移ろうかと思う。
前回の散歩の終点が松川駅だったので、ここから「達」へ出るとなると、いわゆる「達南」と称される福島市飯野町や川俣町へと至るのが順当なルートだろう。福島第一原発事故により計画的避難区域に指定された飯舘村や川俣町南東部の山木屋地区と関わりが深い地域でもあるから、歩けば事故の傷跡や影響が伺えるかもしれない。
ここでふと、山木屋出身の大学の同級生を思い出す。実家が葉タバコ農家だという彼は高校の教職を志し見事採用試験に合格。卒業後は双葉農業高校(現・双葉翔陽高校)に赴任することが決まったと言って嬉しそうな表情を見せていたのが印象に残っている。が、福島県内における今年の葉タバコの作付は全面的に断念せざるを得なくなった上に山木屋も計画的避難区域に指定され、加えて双葉翔陽高校は福島第一原発から5キロ以内と警戒区域内にあるため生徒は他校での勉学を余儀なくされている。今彼がどうしているのかわからないが、恐らく胸が潰れるような思いで毎日を過ごしているのではなかろうか。
川俣町を訪れたところで彼に会える訳ではないが、思いは多少なりとも共有できれば… と考える。
 
桑折駅発5時41分の上り始発電車で出発。踏切に故障があったとのことで20分以上遅延し、松川駅には6時39分に着いた。無人の改札を出、東へと歩を進める。
松川駅から飯野、川俣方面へ至るルートは主要地方道霊山松川線→県道福島飯野線と県道松川停車場戸ノ内線→主要地方道川俣安達線の二つある。どちらのルートも過去の散歩で歩いたことがあるのだが、前者は2010年2月12日に歩いたのに対し後者は2008年6月14日(奇しくも、岩手・宮城内陸地震の当日である。散歩中に地震に遭遇していたはずなのだが、鈍感な私は全く揺れを感じなかった)以来ご無沙汰だったので、後者をチョイスする。
もっとも、このルートは、若干ではあるが二本松市域を通過する。伊達郡ではなく安達郡の「達」を歩くことになってしまうが、そもそも松川駅の東側に位置する福島市松川町沼袋及び下川崎地区は、1955年まで安達郡に属していた。
主要地方道にしては狭隘な川俣安達線を東進し、水原川を渡ると二本松市に入る。左手には阿武隈川。晴れていれば濁流が岩を食む風景が堪能できるが、川面はここ数日来の雨で増水しており、岩など見えやしない。市境から1キロも歩かないうちに新飯野橋を渡って阿武隈川の対岸に出、福島市飯野町へと入る。橋の上流を見ると、飯野ダムの堰堤から濁った水が勢いよく放出されている。
新飯野橋から1キロほど北東へ歩くと、飯野町の中心商店街へと入る。「welcome」の文字が筆記体で描かれた黄色と緑のチェックのフラッグがお出迎え。昨年歩いた時にはつるし雛まつりの開催を伝えるピンクのフラッグが掲げられていたが、どうやら定期的に交換しているようだ。
この他にも飯野町の商店街では、町北部の千貫森にUFOが飛来するという都市伝説を逆手にとってUFOを象った街灯や宇宙人をモチーフとした石像が点在し、何かとユニークだ。そんな飯野町だから「頑張ろう飯野町!」などと書かれた幟も掲げられているのかなと期待していたのだが、さすがにそれはなかった。また、商店街の北に位置する福島市役所飯野支所には飯舘村の役場機能が移転しているのだが、飯舘村を励ますようなフレーズの類も見当たらなかった。私が見た限りでは仮設住宅も建っていなかったので、ある意味震災前と変わらぬ風景が展開していると言えるだろう。
新興住宅地も散見される飯野町東部の大久保地区を通り抜け、川俣町に入る。
川俣町は織物の町。小規模な織物工場がそこかしこに点在し、織機が休みなく稼働する音が聞こえてくる。そして工場の付近には、これらの工場の従業員用とおぼしきアパートが建っていたりする。しかも、ハーモニカ長屋や殺風景な集合住宅ではなく、最近建てられた瀟洒なアパートが意外に多い。川俣町は原発付近からの避難者が多く身を寄せていると聞くが、その理由の一端がわかったような気がした。
更に川俣町中心部へと進んでいくと、国道114号線沿いのロードサイドショップ群や済生会川俣病院の大きな建物が見えてくる。「住」に加え、「衣食」に「医」も十分満たされている。原発に程近く阿武隈丘陵に抱かれた自治体の中では、条件は最良ではないかと思う。原発からの距離的には三春町や田村市船引町も川俣町と似たような都市規模を有しているけれど、居住可能な集合住宅の空室状況や医療機関の充実具合では川俣町にかなわない。唯一のデメリットは公共交通機関の便が良くないことだが、福島駅東口とを結ぶJRバスが1時間ヘッドで通じているから、田村地方と郡山市とを結ぶ磐越東線に比べて極端に劣っているようにも感じられない。
そのJRバスだが、川俣の街の東端の丘陵上に位置する川俣高校前を9時10分に発つ福島駅東口行の便がある。済生会川俣病院の近くを通過した時点で時計を見ると8時50分を過ぎていたから、そろそろバスの時刻にも気を配らなければならない頃合いだ。歩く速度を速めつつ、川俣町の中心商店街へと入る。
商店街には「がんばるぞ!! 川俣」と書かれた幟が何本か立っていた。幟の上部を見ると「見せろ! 川俣の底力 心ひとつに!」とも書かれている。復興にかける川俣町の心意気を感じた次第だが、それ以上に私の目を引いたのは、各店舗の店先に貼られたポスターであった、日の丸を模したデザインのそのポスターには、「日本一心」と墨書で大書されている他赤い円の周囲に「がんばろう川俣 がんばろう飯舘」とも書かれており、下部には「生まれ育ったふるさとに帰るまで 多くの人が心をひとつに」とのフレーズが踊っている。
これまで歩いてきた地域では地元を激励し奮起を促す幟こそいくつかあったけれど、地元以外の地域を激励する幟やポスターの類は見たことがなかった。避難者が多く身を寄せているという事情があるとはいえ、より大きな被害を被った地域にも気配りを忘れない川俣町の心意気には胸を打たれるものがあった。
9時08分、商店街の北東端に位置する川俣中島のバス停で散歩を打ち切る。バスは9時12分に来るとのこと。