2011年8月5日 ~信達地方の今⑥ 川俣から掛田まで~

福島第一原発から風に乗って信達地方へと飛来した放射性物質について、ひとつ気になることがある。
それは、伊達地方を南北に流れる広瀬川沿岸の放射線量が周辺地域に比べて低いこと。
福島県が4月初旬に調査したところによると、広瀬川沿岸の小学校を挟んで東西の小学校において、以下のような数値の差が出ているのだ。
 
【国道114号線沿道】
川俣町立山木屋小学校 6.0
川俣町立川俣小学校 1.5
川俣町立富田小学校 1.9
川俣町立福田小学校 1.3
福島市立青木小学校 3.5
福島市立立子山小学校 3.0
 
主要地方道川俣原町線沿道】
飯舘村立臼石小学校 11.5
川俣町立飯坂小学校 2.1
川俣町立川俣小学校 1.5
 
主要地方道川俣安達線沿道】
川俣町立川俣小学校 1.5
川俣町立富田小学校 1.9
福島市立大久保小学校 3.8
福島市立飯野小学校 3.5
 
国道399号線沿道】
飯舘村立臼石小学校 11.5
伊達市立月舘小学校 1.8
 
【国道115号線沿道】
相馬市立玉野小学校 4.4
伊達市立石田小学校 1.6
伊達市立掛田小学校 2.8
伊達市立小国小学校 4.8
福島市立大波小学校 4.8
(いずれも地表1メートルでの数値。単位は毎時マイクロシーベルト。以下の表記も同様。太字の学校は広瀬川沿岸に所在。なお、国道115号線沿道において広瀬川は石田小学校と掛田小学校のほぼ中間を流れている。)
 
ご覧の通り、いずれのケースにおいても、広瀬川をボトムとして東西に離れるに従って放射線量が増大する傾向が伺える。しかも、東側には計画的避難区域に指定された川俣町山木屋や飯舘村があるにもかかわらず、これらの地域よりもずっと数値が低いのだ。
多分、地形の関係なのだろうと思う。広瀬川沿岸は谷状の地形が延々と続いていたはずだ。
しかしながら、私にはこの地域を訪れた経験が乏しい。クルマで通る機会もないし、散歩だって昨年2月6日に伊達市梁川町と川俣町との間を歩いたのが唯一の経験。しかもその日はずっと雪が降っていて、周囲は真っ白。地形を確認する余裕すらなかった。
であるならば、今の機会に実地検分と行こうではないかと考える。今日のメインテーマは、広瀬川沿岸を南北に縦貫する国道349号線を北へと歩き、現地の地形を確認することとしよう。
ただし、終点をどこにするかは、まだ決めていなかった。広瀬川にこだわるならば伊達市梁川町だし、国道349号線を歩き通すならば同じ伊達市保原町ということになりそうだが、今日の起点は川俣町。バスで行かねばならないため、散歩開始時刻が遅くなることを考慮すると、少し手前の伊達市霊山町掛田辺りも候補となりそうだ。
さて、その起点の川俣町への道中。バスが来る間際福島駅前の風景を軽く見渡したのだが、夏休み中にも関わらず高校生の姿が非常に多く、何となく活気が感じられた。「文化部のインターハイ」と呼ばれる第35回全国高校総合文化祭(ふくしま総文)が開催されている影響かと思われる。また、祭りと言えば、福島市中心部では明日からわらじまつりも開催され、賑やかさは更に増すはずだ。いずれもイベントの類でかりそめの活気ではあるけれど、原発事故後の福島市からはなかなか耳にしないフレーズだったので、ちょっと嬉しくなった。
福島駅前を7時35分に発ったバスは、前回の散歩の終点・川俣中島のバス停に8時18分に着いた。前回までの散歩では殆どが6時台のスタートであったから、若干の違和感が残る。
まずは国道349号線に出、広瀬川沿いを北上。 街並みを抜けると広瀬川が寄り添い、左右には丘陵が迫る。見事なまでの谷底で、なるほどこれならプルームも川沿いには容易に近寄れないなと妙に納得した。
谷底の白眉とも言えるのが、街並みから2キロほど北に位置する鳴石トンネル付近。この付近の広瀬川は大きく曲流しており、2006年に開通したトンネルは川に従い行く手を阻むかのように聳える丘陵を一直線に貫いている。昨年雪の中を歩いた時トンネルの中でしばし安堵したのを思い出す。
トンネルを出ると谷が多少開け、川俣町北端に位置する小島(おじま)の集落。中心には、3年前に廃校となった小島小学校の校舎や敷地を活用した宿泊施設・おじまふるさと交流館が建っている。原発事故では避難所として活用され、現在も身を寄せている避難者がいるという。かつて校庭だったグラウンドでは、表土の除去作業が行われていた。昨年近くを歩いた時にはわからなかったが、グラウンドは芝生の生えた立派なものであり、機械的に除去させられるのには胸が痛む。
小島から更に北進すると左手に旧道が別れる。昨年も訪れた伊達市月舘町下手渡(しもてど)の集落へと続く道だ。この辺りでも広瀬川は右に左にクネクネと曲流しているが、旧道は委細構わず渡河して北上を続ける。二度目の渡河で、川俣町と伊達市との境界線を跨ぐ。
下手渡は立花氏が拠った下手渡藩一万石の本拠地で江戸時代後期から幕末までは陣屋が設けられていたそうだが、現在は鄙びた農業集落の雰囲気が濃厚に漂う。出穂間近の田んぼ、道端に咲くヒマワリ、そして蝉時雨… 典型的な日本の農村の風景を見たような気がする。
下手渡を過ぎ、再び国道349号線へと戻る。川俣町内ではきちんと歩道が整備されていたのだが、月舘町内では大半の区間で歩道はおろかセンターラインすら設けられていない。広瀬川の谷も若干狭くなったようだ。猫の額のような田んぼの真ん中に、町内を走る349号線、399号線の両国道や福島市と相馬市とを結ぶ東北中央自動車道の早期整備を求める看板が建っていたりする。このうち東北中央自動車道については、津波原発事故の影響で交通インフラが壊滅的な被害を受けた相馬地方を救済すべく一部区間が早期整備の対象にする方針が先月下旬に大畠国土交通相より発表されたが、国道の方も何とかして欲しいと思う。ただし、飯舘村へと至る国道399号線は、正直なところどうなってしまうのか、皆目見当がつかない。
左手から糠田川が合流する辺りで谷底は再び広くなるものの、月舘町中心部に差し掛かると今度は平地が尽き、川と丘陵との狭間に国道と人家とが密集するような形になる。二本松市東部の小浜なんかもそうだが、どうしてまたこんな所に町が設けられることがあるのだろうと思う。プルームもまた届きにくそうな地形だが、先に紹介した福島県の調査によると小浜小学校の数値は3.6とのことだから、やはり広瀬川沿岸の地域は、何らかの加護を受けているようにも感じてしまう。
そんな月舘の町では今月中旬に小手姫の里夏まつりが開催されるとのことで、開催を告げるピンク色の幟が広瀬川沿いに掲げられていた。福島市中心部と同様に、夏祭りをテコにして地域を盛り上げていこうとの機運も、各地で見られるのではなかろうかと思う。
住宅地を通り過ぎると、再び谷の幅が広くなる。と同時に、これまでの沿道では見られなかった桃畑が登場。大きな実がたわわに実っており、国道に沿いで直売所を開く果樹園も散見される。「信達地方は果樹栽培が盛ん」と一口に言われるが、阿武隈川東岸ではこの月舘町、同じく西岸では石那坂を境としてその南側では果樹園は殆ど見られない。ついでに言えば、信達三十三観音巡礼も、このラインの南側には札所は一ヶ所も存在しない。北と南とでは文化が若干違うのかなとも思う。
そんな想像を巡らせながら歩いていると、妻からメールが入ってきた。「今起きたところです。何時ごろ帰るの?」との旨。妻子は昨日TDLまで日帰り強行軍の旅行に出掛けていて、零時近くに帰宅した。今時計の針は10時を若干回ったところ。確かに目覚める頃合いだ。
妻子が寝入っている隙に梁川町保原町まで歩こうかとの魂胆だったのだが、メールを見ると気持ちが揺らぐ。結局、掛田で散歩を切り上げ、バスで帰宅することにした。
月舘町北端の御代田で広瀬川と別れ、軽い峠越えを経ると、霊山町へと入る。左手には、一部の世帯が特定避難勧奨地点に指定され小国の集落が見えている。すぐそばにそんな地域があるのに、私の目指す掛田の放射線量はそれほど高くない。多少の理不尽さを感じる。
国道115号線との交差点の先で旧道へと入り、南北に細長い掛田の町を通過。北端に位置するバスターミナルを目指して進む。考えてみたら、私の散歩は「駅から駅まで」が基本。起終点のいずれかがバス停になったは過去幾度かあったが、起終点ともバス停というのは初めてではないかと思う。ただし、バスターミナルは1971年まで福島交通軌道線の掛田駅だった場所であり、往時を思い起こさせる小さな駅舎が現在も建っている。駅前にはタクシーの営業所や運送会社が建っており、下手な鉄道駅よりも駅前らしさが濃厚に漂っているのもまた嬉しい。川俣中島のバス停を出てから2時間半ほど。歩き足りない気分も若干なくはなかったのだが、そんな風景を見渡しながら、終点を掛田にして正解だったなと、自らに言い聞かせるのであった。