2011年8月17日 ~信達地方の今⑦ 保原から福島まで~

前回の散歩の終点を掛田駅前バス停にしたのは、ちょっと失敗だったかもしれない。
と言うのも、このバス停を次回の散歩の出発点とした場合、始発のバスで向かったとしても相当な時間のロスになってしまうのだ。
福島交通のサイトで調べてみたところ、掛田へのメインルートである福島駅東口発宮下町・大波経由掛田行の始発便は、なんと8時15分発。サブルートである福島駅東口発伊達・上ヶ戸(あがと)経由掛田行の始発便は7時ジャストだから8時前には掛田に着けそうだが、そもそも自宅最寄りの桑折駅から福島駅へと至る6時台の電車が皆無だから、福島駅で長時間待ちぼうけを余儀なくされることになる。
だから、地図を見ながら他にどんなルートがあるのか考える。伊達・上ヶ戸(あがと)経由掛田行の始発便が桑折町との境界に近い伏黒入口バス停にも立ち寄るので、そこを始発にした場合どうだろう。伏黒入口の通過時刻は7時28分とのこと。となると逆算して6時台後半に自宅を出発してそこまで歩けばいいか… と思いかけるが、早朝とはいえ外は暑い。1時間弱も歩いた後の汗だくの状態でバスに乗るのは憚られる。
その他いろいろと思案した結果、まず東北本線東福島駅まで行き、阿武隈急行卸町駅まで徒歩で移動し、電車に乗って保原駅下車。ここを起点に散歩を始めることに落ち着いた。保原から掛田までは徒歩1時間程度で着くと思う。その分余計に歩くことにはなるが、その程度だったら大した負担にはならない。
 
ところが、いざ現地に足を運ぶと、大きな誤算が待ち受けていた。桑折駅発5時41分の上り始発電車で出発し、東福島駅5時48分着。東日本大震災以前に発行された時刻表で確認すると卸町駅発の下り電車は6時09分だから21分あれば悠々間に合うはずなのだが、私が着く前に卸町駅のホームに電車が停車し、保原方面へと走り去ってしまったのである。
あれ? おかしいなと時計を見ると、まだ5時55分。どうやら震災後にダイヤ改正が行われたらしい。そのことは知らなかった。迂闊だったと思うが、今までこの駅で東北本線阿武隈急行の乗り換えを何度か経験してきた私の存在が無視されてしまったようで、少々悔しい。次の下り電車は7時04分発とのこと。結局、卸町駅で1時間以上待つ羽目になる。幸い駅前のコンビニが開いていたので、冷房の効いた店内で立ち読みをしながら時間を潰す。
待ちくたびれていったい何をしに来たのかわからなくなりかけた頃に、電車がやってきた。沿線にある高校や大学が夏休み中ということもあってか、車内は三分の入り。しかもその過半数が、7時19分着の保原駅で下車した。さすが伊達市の市役所所在地だけあって、阿武隈急行福島県側の駅では一番活気があるようだ。
今月28日に保原町を中心とした一帯において伊達ももの里マラソン大会が開催されるので街中はその告知一色かと思いきや、駅前にはちょっと信じられない内容の幟が何本も立っていた。なんと、伊達氏17代当主である独眼竜政宗のイラストが描かれているのだ(いささか大仰な文章だが、伊達氏の当主にはもう一人、南北朝時代に活躍した9代当主の政宗がいるため、そのように表現せざるを得なかった)。
確かに伊達氏と言えば、独眼竜政宗の名前が連想される。戦国時代に奥州南部をほぼ制圧した実績もさることながら、隻眼という特異なルックスでも目立つ存在なのは間違いはない。が、彼は、一度として伊達市内に居城を構えることはなかったし、逆に豊臣秀吉が行った奥州仕置に伴い現在の伊達市内の所領を失った経緯もあるから、伊達市のシンボルとして起用するには相応しくない人物のようにも思われる。この幟といい、桑折町にある旧伊達郡役所をパクッたデザインの駅舎といい、保原駅前の風景にはどうにもプライドや品性が感じられない。「♪それはないんじゃない~」と、駅の南側に見えている「FUJITSU」の看板を眺めながら、ふと口ずさむ。
 
そんなこんなで私にとっては理不尽な出来事ばかりが続く今日の散歩だが、気分をリセットして掛田方面へと延びている国道349号線を南下することにしよう。強い日差しの中、前半は田んぼや果樹園が展開する広々とした風景を、後半は丘陵を登り降りし、事前の予測通り、約1時間で掛田の町に入った。
でも、今日の散歩は、ここからが本番である。
実は、ちょっと思い切ったルートを行こうかと考えている。
まずは掛田から伊達市霊山町下小国を経て福島市大波まで国道115号線を西進し、大波の集落を通過した先で左手に分岐する県道山口渡利線へと分け入り、阿武隈川を挟んで福島県庁の南東に位置する福島市渡利、そして渡河して福島駅まで、というルートだ。
下小国、大波、渡利は、いずれも福島第一原発事故の影響を受け、放射線量が高い地域として地元では知られている。そんな場所を歩くなんて不謹慎ではないかとも思ったのだが、タイトルにもある「信達地方の今」を知るためには、欠かせない訪問先ではないかとも考えている。いずれにせよ、現地は見ておきたい。机上の想像だけでこれらの地域を論じる愚を犯さないためにも…
国道115号線を歩く。この区間の国道115号線を歩くのは4年ぶりのこと。余談だが、その時は今回のルートとは逆に福島駅⇒渡利⇒県道山口渡利線⇒国道115号線と進み、掛田の町の南端で国道349号線を右折して伊達市月舘町まで歩いた。確か私にとって、散歩時間が初めて3時間の大台を超えた散歩だったと記憶している。
その時の記憶はまだある程度残っているから、現在の風景とついつい見比べてしまう。家屋や田畑には東日本大震災原発事故の直接的な影響は思ったほどは確認できなかったが、強いて言えば、国道の通行量がある程度増えたように感じられる。原発事故の影響で相馬地方といわき市とを直結する交通インフラが利用できなくなってしまったことに伴い、この国道115号線こそが、相馬地方にとって福島市郡山市、更には首都圏とを結ぶ貴重なルートとなってしまった訳だ。
国道だから路面はそこそこ整備されてはいるものの、貧弱な印象は拭えない。そんな事情を踏まえてか、先月下旬、大畠国交相福島市-相馬市間を結ぶ東北中央自動車道を10年以内に整備するとの方針を発表した。福島県内における相馬地方の孤立化を防ぐ観点からすれば、整備自体は有難い。が、よくよく考えてみたら、この決定は「原発の所在する双葉郡が元の姿に戻るまで10年以上かかる見込み」であることの裏返しではなかろうか。少々複雑な心境に陥る。
海呑(かいどん)という奇妙な名前のバス停を通り過ぎると、福島市大波に入る。
市域に入ってすぐ福島りょうぜん漬の製造販売元である森藤食品工業の本社前を通過する。福島市なのに「りょうぜん漬」というのも少し変だが、元々大波は先ほど通過した下小国やその南の上小国と共に1955年まで伊達郡小国村という行政村を形成しており、同年2月から3月のごく短期間ではあるが伊達郡霊山町に所属していたこともある。地形的にも掛田方面に流れる小国川の上流域にあたり、緩やかな登り勾配が延々と続く。大波は伊達郡だった…その史実は、現地を歩くとよくわかる。
集落の様子を観察して意外に思ったのは、屋根をブルーシートなどで補強した家屋が少なかったこと。この辺りは地震の被害はあまりなかったのであろうか。沿道の田畑で農作業に従事しているお年寄りの姿と相俟って、震災前と変わりない風景が展開しているように感じられた。
ただ、子供達の姿は一切見えなかった。元々の数が少ないのかもしれないが、その一点だけ、違和感が残った。
登坂車線も登場するほどの登り坂の鞍部を越えるとすぐに、県道山口渡利線が左に分岐する。道路名からも推察されるようにこの辺りは福島市山口で、以前より信夫郡に属していた。
左折すると、つづら折りの急激な下り坂が待ち受ける。下りきると小さな集落があり、その先は再び登り坂。この時点で2時間以上歩いてきた脚にはちょっとハードではある。唯一期待していたのはアップダウンの道中で雑木林の木陰の涼を享受できる期待感であったが、それも思ったほどではなかった。
再び下り坂に差し掛かると、渡利へと入る。V字を刻む谷の合間から、福島市の中心街が見える。ようやく着いたとの思いが去来するが、時計の針を見ると10時を少し過ぎている。福島駅発11時ジャストの下り電車に乗る予定を立てていたが、果たして間に合うか。多少早足になり、周囲の景色に目を配る余裕がなくなってきた。
そんな訳で、渡利の様子は、お世辞にも把握できたとは言い難い。ただ一言「静か」な印象はあった。人家の密集具合に比べて人通りが妙に少ないのだ。住宅地だから、大波で見たような農作業に従事しているお年寄りもいない。みんな屋内で息をひそめて生活しているのだろうか。それとも避難した世帯が相当数いるのだろうか。詳しくはわからない。
いや、渡利は元々静かな環境なのかもしれない。福島市中心街に近く福島南高校が所在し花見山公園などのレジャースポットも有しているから、「もう少し人通りがあってもおかしくないだろう」というイメージが、私の頭に刷り込まれているだけなのかもしれない。イメージの相対化が必要だろう。そのように考え至っただけでも、訪れた価値はあったのだと一人納得した。
阿武隈川を渡り、小走りで福島駅へと急ぐ。息も切れ切れの状態で10時57分に到着。電車には何とか間に合った。