2011年8月28日 ~信達地方の今⑨ 伊達から貝田まで~

いささか唐突な話だが、7月1日から書き綴ってきた「信達地方の今」シリーズを、今回で最終回にしようかと考えている。
理由は簡単で、東日本大震災の前に進めていた仙台銀行支店巡礼を、そろそろ再開しようかと思ったのである。津波の被害は甚大なれど瓦礫もある程度片付いているようだし、「震災後の福島県」の後は「震災後の宮城県」の様子も見て回りたい。決して物見遊山の類ではなく、自分の中に東日本大震災を刻んでおくためにも…
 
で、最終回の散歩であるが、前回の散歩の日記で触れたように、伊達駅を起点として伊達市内の保原町梁川町を見て回り、初回の散歩の起点である貝田駅へと至るルートで考えている。
朝5時に起床。ここ数日グズついた天候が続いていたが、今日は晴れ。ただし、最高気温は30度未満にとどまるらしい。季節は確実に夏から秋へと移り変わろうとしている。
桑折駅発5時41分の始発電車に乗り、次の伊達駅で下車。
まずは駅前通りを直進する。ウォーキングに精を出したり庭先で体操に励む中高年の方が結構いるのに驚く。放射線など何するものぞ! との気合を感じる。今日の散歩は長丁場になりそうだが、私もまた頑張って貝田まで歩き通さねば、と勇気づけられる。
福島信用金庫前の長岡分岐点から延びている福島交通軌道線跡の道路を東進。阿武隈川に架かる伊達橋の歩道橋を渡り、しばらく歩くと国道399号線に合流する。沿道は、人家と桃畑とが混在した風景。大半の桃畑では収穫が終わっていたが、一部に未収穫のまま実が残る箇所も散見される。福島第一原発事故の影響で、信達地方自慢の桃は大きな打撃を受けた。今年だけで済めばまだいいのだが、稲などの一年草とは違って土壌に根を深く下ろす果樹が相手なだけに、除染作業は困難を伴うことが予想される。ブランドイメージも台無しだ。
このままだと棄農者が増える一方ではなかろうか… と心配になる。荒れ果てた土地が増えていくことは衛生上も問題が大きいし、早急に手を打たねばならないと考える。以前から思っていたが、福島県にはどうして「農学部」が存在しないのだろう。農作業ではなく農業理論のプロフェッショナルがもっと地元に根付いていたならば、もっと早く事態が打開できると思うのだが。農業に限らず、福島県は様々な学問の分野で「知」の集積が遅れている。どうにかならないものだろうか。
そんなことを考えながら桃畑を眺めていたのだが、国道399号線沿道一帯は、桃畑以外にも、新たな変化が求められる可能性が存在する。
相馬市と福島市、そして首都圏とを結ぶため10年以内に開通させる方針が示されたこの道路、福島市近辺のルートについては複数の案が示されたにとどまり最終決定は先送りされたものの、いずれの案が採用されるにせよ伊達町と保原町との中間に位置する伊達市伏黒で国道399号線と交差するのは確実のようだ。恐らくインターチェンジができるだろう。となると、沿道の桃畑を潰してロードサイドショップが林立するなんて事態にもなるかもしれない。伊達市のマスタープラン次第では、周辺の市街地も巻き込んだ形で地域の変容を迫られる可能性がある。
そんな妄想を展開していたら、いつの間にやら保原の街へと入っていた。今日は伊達ももの里マラソン大会の開催日で、沿道ではスタッフが椅子に座って車両の誘導などをしている。まだ7時前。早朝からお疲れ様である。
が、それ以上に目を引いたのは、商店街の西端近く、弥生町のバス停の前に建設中の保原小学校の新校舎であった。現校舎が老朽化したため震災前から建設が進められていたものだが、あろうことかその現校舎が大きく被災して使用不能となり近隣の中学校に間借りすることになってしまったため、早期の完成が待たれるところである。
しかし、それにしても、沿道に掲げられた完成予想図を見ると、ずいぶん大きくて立派な校舎である。校舎というより総合病院の病棟のような雰囲気だ。6年前、旧保原町の役場を新設した時もそうだった。商店街付近にあった木造2階建ての粗末な役場が一転、阿武隈急行大泉駅前に立派な役場が移転新築され、今では伊達市役所の本庁舎として機能している。
とにかく後世に残るような立派な建物が欲しい… 保原町の人々の訴求力は徹底しているように思えるが、伊達市全体のバランスを考えた場合、やや目立ち過ぎの感がなくもない。後ほど訪れる梁川町でもまた、中心部にある梁川小学校の校舎の老朽化に伴い移転新築問題が従前から俎上に上がっていたのだが、移転候補地すら決まらないまま今に至っている。しかも、梁川小学校の校舎もまた被災して使用不能になり、保原小学校と同様に近隣の中学校や高校に間借りして授業が行われているという。非常に不幸なことに、震災というファクターが、保原、梁川、両地域の格差を浮き彫りにしてしまった。この現状に、伊達市民、特に子供や保護者はどのような思いを抱いていることだろうか。「伊達 織りなす未来 ひとつの心」という市のキャッチフレーズに逆行するような結果を招いてはいないだろうか。
福島交通のバスターミナルとなっている保原バスセンターを過ぎると、国道349号線との交差点。ここを左折し、梁川町方面へと向かう。商店街が続く沿道の街灯には「がんばろう ふくしま! ほばら」のコメントと共に保原町商業協同組合のシンボルキャラクター・ククルスが描かれたフラッグが掲げられていた。ククルスは旧保原町の鳥であったカッコウをデフォルメしたもの。前々回の散歩の初っ端に保原駅前で見た伊達政宗の幟よりは、地元らしさが伝わってきて良いと思う。
しばらく歩くと市街地が尽きる。ただし、沿道には住宅が結構張り付いていて、その裏手に田畑が広がるという構図である。伏黒近辺と比べると、田んぼの比率が高い。
とは言うものの焦点のない風景だから、再び妄想モードへ突入。伏黒にインターチェンジが設けられるとしたら、伊達市内にも高速バスが走るかな、そしたらそのルートは… といった他愛もない話。東京、仙台、郡山… 福島市を介さずに伊達市と各地とを結ぶバスが、東北中央自動車道経由で走る可能性はあるだろう。そうなれば、明治維新以降「福島市=主、伊達地方=従」の関係が築かれてきた信達地方のバランスも、やがて崩れていくかもしれない。そういう歴史の転換点に、我々は立っているのかもしれない。
梁川の街に入る。
商店街の入口付近に、10月23日に三浦弥平杯伊達市梁川ロードレース大会が開催される旨の告知がなされていた。1980年に始まった大会だから1961年から続いている伊達ももの里マラソン大会よりも歴史は浅いが、1920年アントワープ1924年パリの両五輪にマラソン代表として出場した郷土の先人を讃えた名称に、梁川町の矜持を感じる。余談だが、今年は三浦の没後40年の節目の年にあたる。また三浦が他界した年は、奇しくも梁川町を含め信達地方一帯を網羅していた福島交通軌道線が廃止された年でもある。
軌道線当時は梁川駅が建っていたコープマートの脇を通り、国道を北上。広瀬川以南は比較的新しい商店や住宅が連なる平凡な街並みだが、広瀬川以北は昭和の雰囲気を色濃く残した商店街となっているのが特徴だ。何となくだが、掛田に似ているような気がする。偶然の一致なのかはたまたかつて信達地方界隈でチェーン展開でもしていたのかはわからないが、掛田、梁川の双方に「百万弗」の看板を掲げた元パチンコ屋の廃墟があった。「弗」と書いて「ドル」と読ませるのは、まさに昭和の感覚だ。
商店街が尽き、福島交通の営業所の前を通り過ぎると、梁川大橋で再び阿武隈川を渡る。前方には五十沢(いさざわ)の集落、そして宮城県との境界をなす丘陵が見えている。丘陵には柿畑が展開し、秋になると全体が柿色(オレンジ色とはさすがに形容しづらい)に染まる。私の好きな風景の一つだが、今年の柿は消費者に受け入れられるだろうかと考えると、気分も塞ぎがちになる。
渡河した先にある交差点を左折し、県道五十沢国見線へと入る。1キロも歩くと、街村状に住宅が並ぶ東大枝の集落へと入る。集落の西外れで、三叉路が登場。左は福島、右は仙台、かなり大雑把な行先表示が見えている。いずれの道も福島や仙台までは行かず、左の道は県道五十沢国見線の名称のまま国見町の中心・藤田まで、右の道は県道大枝貝田線の名称で今日の散歩の終点となる貝田まで、それぞれ向かい、国道4号線に合流する。
ここは当然右折。分岐点の少し先、左手に大枝小学校の校舎が見えている。かつての伊達郡大枝村が旧梁川町国見町とに分割して合併したため現在も伊達市国見町とで組織される組合によって運営されているという、珍しい小学校だ。国見町が来年度から町内の小学校を統合する方針を示しているので存続が危ぶまれたが、梁川小学校の移転新築問題が解決するまでは、国見町分の学区を統合後の小学校の学区に編入させた上で、伊達市立の小学校として存続する方向らしい。ただし、梁川小学校の問題が片付けば、同校に統合され廃校になることが確定している。時代の流れとはいえ、淋しい気がする。
ほどなくして、国見町に入る。県道はしばらく平坦な所を直進するが、光明寺の集落に差し掛かる辺りから、貝田を目指して急坂を登るようになる。正面には、厚樫山の裾を巻くようにして登る東北自動車道東北本線国道4号線が見えている。ゴールが近付いているのを感じる。
貝田町裏の交差点で国道4号線に合流。7月1日の散歩の時と同様に貝田の宿場町を通り抜け、貝田駅に到着したのは9時05分のことであった。桑折方面への電車は、9時52分までない。駅しかないような貝田でそんなに長時間待つのは退屈極まりないなと、待合室のベンチに腰掛ける。
ここでふと、3月12日に仙台から桑折まで歩いて帰宅した時のことを思い出す。あの時も貝田駅の待合室のベンチに腰掛けて、県境を跨いで歩いたことを一人で祝しながらヤケクソで缶チューハイを煽ったんだっけ。当時のシーンを回想しながら、この貝田駅こそが、私が「信達地方の今」を見て回る起終点としては最もふさわしいスポットではなかったかと思い直す。
あれから、半年が過ぎようとしている。我が散歩もそろそろ新しいステップへと踏み出すべきだと、改めて感じる次第であった。