2011年10月2日 ~仙台銀行支店巡礼(26) 亘理支店~

10月に入り、半袖姿もすっかり消え失せた。私もまた衣替えで、今日からジャージ着用での散歩となる。
今日の散歩先は、亘理駅を起点に前回訪れそびれた亘理支店(309)に立ち寄った後、主要地方道塩釜亘理線を経由して仙台空港まで至るルート。沿道は東日本大震災津波で大きく被災したエリアでもあり、様子がどのようになっているのか、非常に気になるところ。特に、亘理町東部、阿武隈川の河口に位置する荒浜は2007年5月3日に訪れたことがあるだけに、注目したいと思う。
 
前回と同様、桑折駅7時16分発の下り電車で出発。8時04分着の岩沼駅で下車し、8時35分発の常磐線の列車に乗り換える。日曜日の早朝とも呼べない時間帯の列車なだけに乗客は少なく、3割程度の乗車率。ただし、その大半が8時44分着の終点・亘理駅で下車したから、改札口はちょっとした混雑に見舞われた。駅前には、相馬駅原ノ町駅へと至る代行バスが停まっており、亘理駅はちょっとしたターミナルと化している。
前回の散歩では気が急いていて駅周辺を見回す余裕がなかったが、今日改めて亘理の駅舎を見ると、武家屋敷風であり、しかも駅裏にある城郭風の郷土資料館・悠里館と一体になっている。城下町らしい駅という点では、船岡駅といい勝負ではなかろうか。
ただし、亘理町の中心部には、城下町らしさはあまり感じられない。わずかに、灯篭風の街灯や町内における城下町を偲ばせる地名を紹介した石柱、あと五日町の商店街の南北に設けられた枡形(クランク)が目立つ程度であろうか。武家屋敷の一つか二つでも残っていれば、小京都的なまちづくりも期待できたところなのだが。
「がんばっぺ亘理」のフラッグが掲げられた駅前中央通から五日町、中町を経て、塩釜亘理線へと出る。沿道にはロードサイドショップが多く進出し、町内の新しい商業核となっているようだ。面白いのは、大阪に本社を有するマツヤデンキが進出しているところ。宮城県内の家電量販店はヤマダ電機、コジマ電気、ケーズデンキの北関東系がほぼ独占した状態となっているだけに、マツヤデンキとは非常に珍しい。帰宅後に調べてみたら、宮城県内で唯一の店舗ということであった。
亘理支店は、そんな街並みの一角にあった。2004年に移転新築した建物とあって、周囲の段差を極力排したユニバーサルデザインとなっているのが特徴だ。ATMで1,000円を入金し、これで仙南ブロックの店舗は制覇した。次は塩釜支店(401)となるが、亘理町から40キロほど離れているので当然今日中には歩ききれない。従って、今日は仙台空港までとならざるを得ないのだが、そこまででも15キロ以上はある。
列車が当分走る見込みのない常磐線をオーバークロスし、荒浜方面を目指す。塩釜亘理線は国道6号線の裏道としても利用されている道路だからかロードサイドショップ街は常磐線の東側にも広がっており、各店舗とも開店の準備に忙しそうだ。中には亘理町名物のはらこめし(鮭の親子丼)を供する食堂もあり、少し嬉しくなる。もっとも、使われる鮭やイクラは地元産ではないのだろうが。
道路から少し離れた所には、住宅と田んぼが混在する風景が広がっている。仮設住宅が建っているのも見える。既に津波の浸水域に入っているはずだが、田んぼには普通に稲穂が実っており、一部では稲刈りが始まっていた。一見、至って普通の都市近郊の風景に感じられる。
が、ロードサイドショップが尽き、常磐自動車道をアンダークロスすると、様相が一変する。田んぼは枯れ草が茂り所々に水たまりが形成される単なる荒れ地となり、人家も荒れ放題で無住のものが増えてくる。前方には荒浜の町が見えている。遠目には町並みがしっかりと残っているように見えるが、阿武隈川に架かる亘理大橋の袂まで行くと、基礎を残してすべて津波で流失した家屋が何軒か見られる状況… 4年前に荒浜を訪れた時には多少うら寂れていたものの小規模な商店街も残っていたと記憶しているから、その変貌ぶりには心底驚いた。
亘理大橋を渡る。欄干の上部が一部崩落し、ロープで応急措置がとられていた。もしかしたら、津波は欄干まで達したのだろうか。満々と水をたたえた阿武隈川を眼下に、推察を巡らせてみる。
橋を渡り終えると、岩沼市東南端の寺島地区に入る。
目の前に飛び込んできた風景は、凄惨… と表現するしかなかった。以前あったはずの家屋がなくなっているし、辛うじて残っている家屋も一階部分が柱だけしか残っていないものが多かった。右手を見ると、海岸伝いに密生していたはずの防風林が半分ほど流失し、泥と一緒に沿道の田んぼへと流れ着いている。瓦礫の処理はかなり片付いていたようだったが、この流木が未だ手つかずであり、耕作なんて今年はもちろんのこと2、3年は無理のように思われた。
それでも、数少ない住民が、家を補修し戻ってきているようだ。殺風景な風景を少しでも緩和しようとばかりに庭先に花を植える家もあった。ただし、見かけた人は、中高年ばかり。若者や子供の姿は見られない。ただでさえ、寺島から最寄りの小学校までは4、5キロは離れているのだ。震災を機会にこの地を去った家族も少なくないものと思われる。
その小学校が所在する玉浦の集落へと北上を続ける。津波の被害で道路標識や電柱もひん曲がったり傾いたりしたものが少なくない割には路面の状況は悪くなく、復旧作業にあたった方々に感謝の念を抱く次第。沿道にも、警察官や自衛隊の方への謝意を記した看板が立てられていた。先述したように国道6号線の裏道的存在でもあるから、車両の通行も目立つ。どういう訳かパトカーにも何度か出っくわす。被災地に強盗が出没しないかパトロールしているのだろうか。宮城県警はもちろんのこと品川ナンバーをつけた警視庁のパトカーまで出動していたから念が入っている。
玉浦に入る。集落の西側には区画整理された新しい住宅地が広がっておりそこだけは明るい雰囲気だったが、寺島と同様に、集落の東側の田んぼは壊滅状態だ。海岸近くには工業団地があるはずだが、操業状況はどのようになっているのだろうか。足を踏み入れる勇気は、まだない。
玉浦から北側では、塩釜亘理線は仙台空港のターミナルビルからやや西側に外れたところを通っている。ここをそのまま歩くと遠回りになるので、近道をしてターミナルビルを目指すことにする。しばらくの間沿道は相変わらず耕作不可能な田んぼであり、ガードレールも補修されずひしゃげたままで、この辺りの津波被害も相当なものだったと推察される。
が、五間堀川を渡ると、左手には仙台空港・岩沼流通工業団地の工場、倉庫群が現れ、風景が一変する。私が歩いた道路沿いには特に食品系の倉庫が多く、どことなく明るい雰囲気が感じられる。というか、この地を本当に津波が襲ったのだろうかとキツネにつままれた気分に陥るほどだ。右手は相も変わらず荒れ地同然の風景だから、彼我の差は歴然。一般企業の回復力は大したものだと思う。
仙台空港もまた、大した回復力だ。東日本大震災のニュース映像で滑走路が津波に覆われるシーンを見た方は多いと思うが、震災から半年を経て、国内外への定期路線はすべて元通りに復旧し、仙台駅とをダイレクトに結ぶ仙台空港アクセス線も、つい昨日、10月1日に運行を再開した。仙台市宮城県に留まらず東北地方のハブ空港として仙台空港が認識されている証左でもあるのだろう。そんなことを考えながら歩いていたら、岩手県交通や山交バスの観光バスが、空港方面から走り去っていくのが見えた。
東日本大震災からの復旧の順序に際しては、経済的な効率が最優先されているように思う。仙台の街にせよ、港や空港にせよ、確かに復旧は早かったが、それは海岸沿いの集落や田畑の復旧を後回しにするという犠牲と表裏一体の事象のように感じられる。致し方のないことなのかもしれないが、不平等な気がしてならない。
しかし、ここで舌鋒が鈍るようではあるが、より多方面から期待を寄せられるハブやインフラがあってこそ、地域全体の復旧や復興も早まるのかもしれないと考え直す。私の住む福島県原発事故の収束や放射性物質の除染が最優先課題となってしまった感があるが、福島県が我が国の経済に及ぼす影響がより大きければ、官民一体となってもっとスムーズな対応がなされていたのではないかとも思うのだ。その意味では、仙台を羨ましく、また妬ましくも感じる。東日本大震災の影響で宮城県の人口は2万人以上減ってしまったが、仙台市に限って言えば2千人ほど増えているのだ。福島県には仙台のようなハブがない。だから尚更悔しい。
空港のターミナルビルから少し離れた位置にある仙台空港駅に着いたのは、11時40分のことであった。散歩前の予測では間に合うとは考えていなかった11時45分発の快速に間に合った。おかげで、帰宅が1時間ほど早くなる。
車内に入ると、座席の半分ほどが埋まっていて、少し驚く。空港利用者ではない奇特な乗客は恐らく私だけだろうから、やはり仙台空港の集客力は大したものだと思う。ほどなく扉が閉まり、仙台駅へ颯爽と走りだしていった。