2011年10月5日 ~仙台銀行支店巡礼(27) 仙台空港から中野栄まで~

仙台銀行支店巡礼の次なる訪問先は塩釜支店(401)であるが、前回の散歩の終点であった仙台空港から塩竈市までは30キロ近くあり、一息で歩ける距離ではない。
そこで、散歩コースを二つに分け、前半の今日は仙台空港から仙台港(仙台塩釜港仙台港区)を経由して仙台市内東端の駅・中野栄まで歩くことにする。仙台空港仙台港と仙台の空と海のメインインフラを訪れることになるが、両者を直結する主要地方道塩釜亘理線の沿道は東日本大震災で甚大な津波被害を受けた所でもあるので、無事に通行できるかどうか心配ではある。まあ、何が目の前に飛び込んできても現実を受け入れることにしよう。心の準備はできている。
 
桑折駅6時30分発の下り始発電車に乗車し、7時25分着の名取駅仙台空港アクセス線に乗り換える。次の電車は7時50分発なので、待ち時間を改札の前で過ごす。東北本線常磐線、そして仙台空港アクセス線と3路線の電車が集中して発着する駅なだけに、乗客がひっきりなしにやってくる。高校生や勤め人など、降客も結構いる。JR東日本が調べたところによると、2010年度における名取駅の一日あたりの乗客数は1万人を超え、東北地方においては仙台、あおば通、盛岡、郡山、福島、秋田、山形の各駅に次いで第8位なのだそうだ。もっとも、 この数字にはJRと仙台空港アクセス線とを相互直通し名取駅の改札を通過しない利用客も含まれているそうだが、改札の活況ぶりを見る限りでは、名取駅は仙台都市圏でも屈指の利用客を誇る駅と呼んで良さそうだ。
通勤風景を覗き見するのに飽きた頃に、仙台空港アクセス線の電車が到着。約10分で、仙台空港駅へと到着する。前回の散歩では電車の発車直前とあって駅構内や空港のターミナルビルをゆっくり観察する暇もなかったので、散歩の出発前に、空港の利用客に混じってしばし見学。各所に空港施設や鉄道の被害や復旧風景を写したパネルが掲げられており、改めて、震災、特に津波被害の大きさと復旧作業にあたった方々の苦労、努力を感じる。
ターミナルビル内には、空港の被害状況と並んで宮城県内沿岸各地の被害状況を空撮した写真も展示されていた。前回訪れた亘理町荒浜、そして今回訪れる予定の名取市閖上(ゆりあげ)、仙台市若林区荒浜、宮城野区蒲生、そして仙台港の写真等々。いずれも凄惨極まる写真であったが、果たして今はどうなっていることやら。決意を新たに、ターミナルビルから外へと歩きだした。
まずは、ターミナルビルのすぐ東側を流れている貞山堀を渡る。この辺りは住宅が比較的建て込んでいたはずだが、コンクリート造りの東北大学漕艇部艇庫兼合宿所などわずかな例外を除いて、建物はすべてなくなっていた。海岸沿いに密生していた防風林の松の木も失われ、そこらじゅうが砂まみれの荒れ地同然の状態となっている。瓦礫の撤去作業は今なお続けられており、重機が忙しそうに働いていた。
そんな一帯を2キロほど北上した後再び貞山堀を渡り、北西へと進路をとる。この界隈は家屋こそ残されていたが内部はメチャメチャで、とてもではないが人が住める状態ではない。右手には、宮城県農業高校の校舎が見える。この学校もやはり津波により校舎及び諸施設が大きく損壊。今年4月から8月まで宮城県内にある複数の農業高校に間借りして授業を行った後、9月からは名取市西部にある宮城県農業園芸総合研究所付近に仮校舎を建てるに至っている。ここにはもう戻ってこないのだろうか。多少気になるところだ。
木引堀、八間堀を相次いで渡ると、周囲は凄惨な風景から新興住宅地へと一挙に変貌する。仙台空港アクセス線の開通と相前後して開発された、美田園(みたぞの)の住宅地だ。この辺りも津波にあったはずだが被害は軽微であったらしく、普通の生活が戻ってきている様子だ。少しホッとする。しかし、住民にとってはたまったものではないだろう。一戸建てを買ったばかりの人たちは転居しようにもできないだろう。また、区域内にはまだまだ空き区画も目立つ。震災の影響で長期にわたって売れ残るなどという事態が訪れるかもしれない。
仙台空港アクセス線の高架橋が左手から近づき、美田園駅へと差し掛かる少し手前で、主要地方道塩釜亘理線に合流。ここから先は仙台港までこの道路を北上する予定だ。住宅地が尽きると、周囲は再び荒れ地のような風景。ただし、住民が戻ってきている人家も少なからず見られたし、コンビニも営業を再開している。徐々に明るい兆しが見えてきているようだ。
更に北上を続けると、名取市内では津波の被害が特に甚大だった港町・閖上へと入る。遠目で見た限り津波で流失してしまった町並みの復旧はまだまだ先の話のように思われたが、周囲の農地に関しては、地元の建設会社や住民が人海戦術で瓦礫の撤去作業を行っていた。「がんばろう! 閖上」「たちあがれ! 閖上」と書かれたステッカーが貼られたトラックや重機が活躍していたのが非常に印象的であった。元通りとまではいかないまでも、名物の朝市がこの地で再び開かれる日を祈ってやまない。
閖上の町のすぐ北側を流れる名取川を渡ると、3月6日以来久々の仙台市入りとなる。足取りも軽くなるはずであったが… 橋の上から風景を見て、絶句した。
以前あったはずの田んぼも人家も、ことごとく更地と化しているではないか。
更地は、かなり広い範囲に渡っていた。ざっと見、藤塚、種次、井土、二木(ふたき)といった若林南東部の海岸から2キロ以内の一帯は、回復不可能に近いダメージを受けていた。今回の震災を受けて仙台市では塩釜亘理線の東側全域などを災害危険区域に指定し、住宅の新築・増改築を禁止するとともに集団移転の対象としたのだが、その理由が一目見ただけで理解できた。
瓦礫は今現在も撤去作業中であり、塩釜亘理線にはダンプやトラックがひっきりなしに行き交っていた。海岸近くに処分場があるらしく、警備員がそこへと至る脇道への誘導を行っている。通過するたびに濛々と土埃が舞うから、どの警備員もマスクでしっかりと呼吸器をガードしている。私もマスクを持ってきた方が良かったかもしれない。ここは一般人が容易に立ち入れるゾーンではないようだ。
事実、瓦礫撤去用の車両や地域住民以外はこの一帯に入らないよう告知する看板が、そこかしこに掲げられていた。が、歩いていても特に警告は受けなかったので、委細構わず北上を続けた。
しばらく歩くと、荒浜へと入る。仙台市内唯一の海水浴場である深沼海水浴場があった集落で、1980年代に開発された住宅地があるなど比較的人家が密集した地域であったが、ここも容赦なく津波でやられていた。まともに残っている建物は小学校の校舎ぐらいであろうか。もっとも、この小学校も、現在は宮城野区内の小学校の空き教室を間借りして授業を行っているという。恐らく荒浜も、復旧、復興がなされないまま、自然に還るか農地か公園へと変貌することになるのであろう。
荒浜から更に2キロほど北上すると、宮城野区に入る。この辺りの田んぼも被害がすさまじいが、住宅は意外に残っている。塩釜亘理線の東側にありながら生活を再開している所もいくつかあった。これらの住宅も、強制移転されてしまうのだろうか。仙台市としてはその意向だが、住民が長年暮らしてきた家を易々と明け渡すはずもないし、交渉は難航が予想されそうだ。
同様の問題は、七北田(ななきた)川を渡った先の蒲生や白鳥においても言えそうだ。河口に近く漁村のイメージを色濃く残していた蒲生は多くの家屋が流失してはいるものの、事業所も少なからず所在するため新たな操業場所を本当に確保できるのか疑問符がつくし、塩釜亘理線の西側に位置する白鳥は強制移住の対象にはならなかったものの、建物を新築・増改築する際2階建て以上とし居室も2階以上に設けることを求めるという建築制限が設けられる見通しとなったため、住民が居住に不安を抱く状況を招いているらしい。いずれにせよ、一朝一夕には解決しがたい問題を抱えている。なまじ住める家が残っているケースが少なくないだけに、若林区とは事情が異なっているようだ。
そんなことを考えながら歩いていると、仙台港後背地の工業地帯へと入り、右手にキリンビール仙台工場の大きな建物が登場する。この工場も津波で被災したがつい先日、9月26日から仕込みを再開したとのこと。キリンビールだってこうやって復興したのだから、一般住宅だって強制移住させることはないだろうとの思いが湧いてくる。所詮外野の意見だが、せめて住む住まないの決定を住民の自由意思に委ねられないものだろうかと考える。
仙台港周辺は、掘り込み式の港湾を取り囲むように建ち並ぶ工場群も、その西側に展開するロードサイドショップ街も、津波が本当に来襲したのかと疑問に思うぐらい、震災前の状態に戻っていた。前回の散歩で訪れた仙台空港周辺でも同様のことを感じたのだが、大企業のパワーは、本当に凄いものがあると思う。その象徴的存在と言えるのが、三井アウトレットパーク仙台港だろうか。こちらはキリンビールの工場よりもずっと早く6月25日に営業を再開させたのだが、平日の午前中だというのに家族連れや若い女性が吸いこまれるように来店していたのが印象的だった。絶望的な風景ばかりを見てきた今回の散歩だったが、最後に希望を垣間見た気がした。
散歩の終点に設定した中野栄駅は、そのアウトレットモールから5、6分の距離。今年で開業から30周年を迎えた橋上駅舎に、11時41分到着。