2011年11月16日 ~奥州街道を南下する④ 白石から桑折まで~

1週間ぶりとなる散歩を、白石駅から再開する。
いつものように桑折駅6時30分発の下り始発電車に乗車し、白石駅6時50分着。今回の散歩の終点は、桑折町の自宅。前回のように帰りの電車を気にするという必要のない行程だ。焦らずゆっくり歩こうかと思う。
まずは、駅前通りを歩く。以前はアーケードが設けられていたが、1995年に白石城が再建されるのと同時期に、アーケードを撤去した経緯がある。歩道も一新され歩いていて気持ちの良い沿道には「俺が行かずば誰が行く 伊達の先陣 片倉小十郎」と大書された白い幟が何本も力強くはためいていた… と書くと威勢の良さを感じさせるが、要は風が強い。この風が散歩の邪魔をしなければいいのだがと少々心配になる。
奥州街道との交差点を左折し、本町(もとまち)の商店街を南下。更に右折、左折と繰り返して旧国道4号線へと出る。片倉氏の廟所だった傑山寺の辺りまでが、白石城下町の範囲ということになる。前方には、福島県との境をなす丘陵が、立ちはだかるように聳えている。
旧国道を1キロちょっと南下すると、国道4号線に合流する。この区間の国道は白石市方面へと歩いた経験が何度かあったが、白石市から南へと歩くのは初めての体験。2キロほど南に位置する奥州街道斎川宿の辺りまでは平坦だという認識があったのだが、意外に登り勾配があるような気がする。
東北自動車道東北新幹線と相次いでアンダークロスすると、その斎川宿へと至る奥州街道が左手に分岐する。宿場町に入る直前で、東北本線奥州街道斎川踏切を渡る。名称は誇らしいが、残念なことに斎川には東北本線の駅が設けられていない。もし駅があったならば斎川ももう少し発展していただろうに、あるいは東北新幹線の駅もこの辺りに設けられて新幹線と在来線との乗り換えもスムーズだったろうに… と、あれこれ夢想する。
斎川宿は、東日本大震災翌日の3月12日に仙台市内から桑折町の自宅まで歩いた際に通過した。あの時は消防団の車両が忙しそうに動き回り物々しい雰囲気だったが、震災から8ヶ月経った今は落ち着きを取り戻している。ちょうど小学生の通学時間帯にあたっており、ランドセルを背負った子供達と何人もすれ違った。
宿場町を出外れると、あぶみすり坂という急な登り坂が待ち受ける。ここを歩いていた時、ふと、3月12日の感覚が、脳裏によみがえった。太陽が山の端に沈み、間もなく暗くなるという頃、せめて明るいうちに県境までたどり着きたいと念じながら足を運んでいた記憶。今は朝8時になるかならないかというところであの時とは時間帯が大きく異なるが、気温や吹き付ける風の冷たさには共通するものがある。体感的に、フラッシュバックしやすい環境にあったのだろう。
坂を登りきると、再び国道4号線に合流する。雑木林の中を進むとほどなく、右手に馬牛沼が現れるのだが、その風景を見て心底驚いた。
水がない。
鯉の養殖場としても知られるこの沼では毎年晩秋になると水を抜いて沼底を大規模清掃する「沼乾し」あるいは「沼干し」と呼ばれる行事が行われるという。そのことは知っていたが、水が全くない馬牛沼を目にするのは初めての体験だ。極端な表現かもしれないが、世界の果てのような雰囲気すら漂う。まあ、いずれ水量は回復するのだろう。その頃、沼辺は白鳥の飛来地として賑わいを見せることになる。
更に南へと進むと、奥州街道が、今度は右手に分岐する。周囲は雑木林ではなく田んぼが広がる小盆地となっていて、奥州街道はその西の縁をなぞるように南下している。その盆地のほぼ中央に位置する越河駅近辺から2キロほど、奥州街道に沿って細長く集落が続いている。宮城県にとっても仙台藩にとっても最南端の宿場町となる越河宿はその最南端に位置しており、越河駅の設置に伴って駅周辺にも集落が形成され、更に両地域の中間に小学校や農協などの諸施設が進出しその周辺にも集落が形成された、あくまで推察だが、そんな経緯を有しているように見受けられる。
奥州街道から外れた所は大方田んぼだが、まれに柿畑も見られる。福島県内では今年柿を燻蒸して乾燥させたあんぽ柿の生産を自粛したが、その福島県との境界から5キロと離れていない越河の柿は出荷して大丈夫なのだろうかとの疑問が湧く。越河を含む白石市もまた「ころ柿」という名の干し柿を生産しているが、今のところ、生産自粛という話は耳にしていない。
越河宿を通過すると三度国道4号線に合流。東北自動車道が頭上を跨ぐというおおよそそれらしくない風情の分水嶺を越えると、いよいよ福島県国見町へと入る。余談だが、県境は宮城県側から見て分水嶺の少し先にある。どうしてそういう境界になっているのか、私にはわからない。
県境を過ぎるとほどなく貝田の宿場町。奥州街道は再び右へと分岐する。ここから桑折町の自宅までの区間は7月1日に歩いたばかりなので、特段の真新しさや発見は感じない。わずかな違いは、家並みの中に今度の日曜日に投票が行われる福島県議会議員選挙のポスターが貼られている程度であろうか。投票日当日は出勤日になっているので、散歩の足取りそのままに町役場まで期日前投票に行こうかと考えているのだが、ポスターを眺めても誰に投票したらいいのか、全く結論が出てこない。
宿場町を過ぎると、左手遠方には伊達地方の広々とした平地が俯瞰できるスポットに出る。「信達平野」あるいは「福島盆地」と形容されるこの平地だが、少なくともここから見える風景に関して言えば、どちらの呼称も相応しくない気がする。周囲を山に囲まれているから平野ではないし、「信達」という呼称も「達(伊達地方)」が「信(福島市)」の従属物のような気がして釈然としない。ましてや「福島」なんて…
「伊達盆地」、あるいはどうしても福島市との関わりを強調したいのであれば「達信盆地」でいいと思う。現実問題として伊達地方は福島市への依存度が高い地域だが、伊達郡民の一人としては、少なくとも福島市の下に置かれる存在ではないという矜持は持ちたいと思う。早稲田大学慶應義塾大学との間で争われるスポーツの試合は一般的には「早慶戦」と表現されるが、慶應義塾大学の関係者は「慶早戦」の名称にこだわる。それと同様に、伊達地方と福島市とはあくまで対等の存在なんだとのスタンスを保ちたい… これは、あくまで世迷言である。県議会議員選挙のポスターを見てしまったせいかもしれない。伊達地方は福島市と選挙区が異なる。あくまで福島市べったりではなく、別個の独立した地域なのだ。
景観を見る目に気合が入らないせいか、こんな感じで余計な方向に思考を巡らせているうちに、藤田宿を起源とする国見町の中心部を過ぎ、公立藤田総合病院の大きな病棟を左手に見つつ、桑折町へと入ってしまう。右手遠方には半田山。頂上にはうっすらと雪が積もっている。冬将軍が確実に近づいているのを感じた。