2011年11月23日 ~奥州街道を南下する⑥ 金谷川から本宮まで~

今夜、桑折駅近くの割烹で行われた飲み会に参加したら、面識が一度か二度しかない方に、
「あれ、あなたこないだ南福島のヤクルトの工場の辺り歩いてなかった?」
と訊かれた。
ありゃりゃ、散歩中の姿をまた見られてしまったか… しかもどういう訳か、その方は東日本大震災の翌日に私が仙台市から桑折町まで歩いたことをご存知で、あの日の長距離散歩を肴に飲む羽目になってしまった次第。
この話、当ブログを読んでいるいないに関わらず桑折町内では少なくとも300人前後の方が耳にしているようで、同時に私の散歩趣味も知られるようになっている。話の流れで「実は今日も歩いたんですよ」と白状せざるを得なかった。
「どこを歩いたの?」
金谷川から本宮まで」と答えると、一同びっくり。
でもって、今日の散歩はこんな行程でして…
 
桑折駅発5時41分の上り始発電車に乗り、前回の散歩の終点だった金谷川駅に6時15分着。まだ薄明かりの学生アパート街を通り抜けて、奥州街道へと出る。金谷川駅周辺と異なり、奥州街道の沿道は、福島大学から近い割には学生アパートの数はさほど多くない。丘陵と田んぼが続く田園風景を、ひたすら南下する。
次の宿場となる八丁目宿に差し掛かる直前で、急坂を登る。坂の上は美郷ガーデンシティという住宅地になっている。先ほどまでの田園風景とは対照的な風景に、多少戸惑う。急坂にも息が切れる。気温は摂氏5度を下回っているはずだが、額に汗が滲む。
でも、こんなことで音を上げてはいられない。この先二本松市に入れば二本柳宿の北側と二本松城下町のド真ん中にアップダウンが控えている。市南端の杉田から大玉村にかけても、長い登り坂が待ち受けている。今日の散歩では、一気に本宮駅まで歩こうかと考えている。昨年の初夏から初秋にかけて郡山市近辺を集中的に歩いた際に、どういう訳か本宮駅安積永盛駅を利用する機会がなかったのだ、だから今日の機会に、リベンジを果たしたい。当然、次回の散歩の行程は、本宮駅から安積永盛駅までということになる。
ところで、八丁目宿と言ってもピンと来る方は多くないかと思うが、要は、福島市松川町の中心部のことである。元々この地域には八丁目、天明根(てめね)、鼓ヶ岡の三村があったのだが、明治時代初期に合併して松川村となってしまった。だから八丁目という地名は現存していないし、今となっては「松川宿」と表現した方が通りが良いという状況になっている。
相馬や米沢に至る街道が分岐し賑わった時期もあったという宿場町を通り抜け、その名もズバリ境川という川を渡ると、二本松市に入る。右手には、安達太良山が見えている。山頂からかなり下った箇所にも積雪が見られる。
大きなやつと小さなやつ、アップダウンを二度クリアすると、二本柳の宿場町。土蔵が点在する様子は宿場町に相応しく、中通り北部の奥州街道では屈指の風景だと思うのだが、古い土蔵のうちいくつかは東日本大震災の被害を受けたせいか、壁面が大きく剥落していた。ちょっと残念に思う。早期の復旧を願う次第だ。
二本柳から二本松市中心部にかけては、比較的平坦な道。すぐ左側には旧国道4号線が並走し、場所によっては奥州街道は旧国道の裏道、ロードサイドショップへの商品搬入口として利用されていたりして多少不満が残るが、それ以外は快適な行程だ。
時計を見ると、もうすぐ8時になる頃合い。そろそろ子供達の登校風景が見られるはずだが全然見かけないので不思議に思う。が、沿道の家に掲げられた国旗を目にし、今日が祝日であることを思い出す。気のせいかもしれないが、二本松市は他の市町村に比べて祝日における国旗の掲揚率が高いように見受けられる。
高村智恵子の生家を過ぎる辺りから城下町の雰囲気が漂いだし、更に進むと城下町北部の根崎、竹田の商店街へと入る。この界隈の商店のファザードは和風のデザインに統一されつつあり、訪れる度にその度合いが増していく。1、2年のうちに前向きな変化を感じ取れる街並みは、そう多くはないと思う。その一方で、レンガ造りで酒蔵らしくない大七酒造の工場などもあったりするから、なおのこと面白い。
しかし、震災や福島第一原発事故の余波はこの二本松市にも確実に襲っていて、毎年秋の風物詩となっている菊人形祭りも、例年ならば10月1日から今日までの開催なのが今年は10月16日から11月13日までと、規模を縮小しての開催となってしまった。その代わりと言っては何だが、白地に青い字で「がんばっぺ二本松 さすけねぞい!!」と書かれた幟が、商店街のあちこちに立っている。「さすけね」とは「大丈夫」「大したことない」という意味の、福島県の方言だ。
家具屋が軒を連ねる竹田で急坂を登り、「幸田露伴ペンネーム由来の地」碑をサミットとして今度は急坂を下る。防衛上の意味があってのことなのだろうが、どうしてこんな急峻な丘陵を挟んで城下町が広がるに至ったのだろうと不思議に感じる。
二本松名産の羊羹屋が早くも店を開けている商店街を通り抜け、更に南下する。左手には東北本線の線路が寄り添う。この線路は金谷川を過ぎると奥州街道のずっと東側を通っているが、ここから本宮市の中心部に入る直前までは、街道とつかず離れずの関係を保っている。
国道4号線をアンダークロスすると、杉田宿に入る。杉田川を挟んで北杉田、南杉田の二宿としてカウントされることもあり、南北に細長い集落だ。
杉田もまた、国旗の掲揚率が高い。南杉田ではなんと三軒並びで国旗掲揚という風景にも出くわした。こんなに密度が高い国旗率は、自衛隊の宿舎以外ではまずお目にかかれない。戊辰戦争において二本松藩は錦の御旗を掲げた新政府軍と激戦を繰り広げたが、本来勤皇の思想が強い地域なのかもしれない。
宿場町の南端付近から徐々に高度が上がっていき、上りきったところで大玉村へと入る。この村は奥州街道東北本線国道4号線も通過しているが、宿駅も鉄道駅も設けられなかったため、沿道の自治体の中では非常に地味な存在だ。加えて村内の奥州街道は、県道須賀川二本松線に指定されているのに大半の区間で歩道が設けられておらず、歩きにくいことこの上ない。だから余計に、印象が薄くなる。唯一の慰めは、右手に安達太良山がクッキリと見えることであろうか。
大玉村は30分ほどで通過し、いよいよ本宮市へ。境界付近に富士五湖建設という会社があり、福島県内なのにどうして「富士五湖」なのかと疑問に思う。帰宅後に調べてみると、この会社の本社は富士五湖に近い山梨県富士吉田市にあるのだそうで、この地にあるのは福島支店なのだそうだ。
富士五湖建設のガレージには、富士山ナンバーを掲げたクラシックカーが停まっていた。そう言えば、福島県の秋の風物詩とも言えるイベントに、レースラ・フェスタ・ミッレミリアという東京から福島県内までを往復するクラシックカーのレースイベントがあるのだが、今年の同レースは福島県内の通行を避け、群馬、新潟、長野などの県を通過する内容となっていた。菊人形祭りの規模縮小もそうだが、残念で仕方がない。
本宮市内でもまた、「三軒並びで国旗掲揚」が見られた。いや、よく見ると、二軒目と三軒目の間には多少間隔が開いており、そこには1876年に明治天皇がこの地を巡幸されたのを記念した石碑が建てられていた。
街灯に電飾を取り付けるなどクリスマスイルミネーションの準備が進む商店街を進み、10時10分、本宮駅に到着。駅舎は古い木造建築、売店もなく、駅裏に市街化が進み市役所も建っているというのに連絡通路すら設けられていないという現状は市の代表駅(更に言えばかつての特急停車駅)としてはいささかお粗末な感があるが、駅前にあった住宅や商店が一部立ち退き、駅前広場の整備が進められている。この界隈もまた、二本松市の根崎や竹田と同様に、数年後には装いを一新しているのかもしれない。今後の散歩の楽しみが一つ増えたと、心の中で喜んだ。