2011年12月2日 ~奥州街道を南下する⑦ 本宮から安積永盛まで~

10月27日から続けてきた奥州街道南下散歩も、今回で最終回となる。
行先は、本宮駅から安積永盛駅まで。鉄道駅の数で言うと4駅分だが、宿駅数は高倉、日和田、福原、郡山、小原田、日出山(ひでのやま)の計6ヶ所となる。なお、安積永盛駅は日出山宿の南に位置する笹川宿の至近に位置しているが、宿場町は駅の南側にあるので通過しない。
 
師走に入って仕事が忙しくなり始め、前日も遅い帰宅だったが、午前5時きっかりに起床。「甘いものは別腹」とはよく言うが、私の場合「散歩の時は別起床(?)」らしい。コーヒーをかっ込んでから自宅を出、桑折駅5時41分発の上り始発電車に乗車する。
外はまだ暗い。
冬至が近づいているからある程度は覚悟していたが、空と稜線との境目がハッキリしだしたのが金谷川駅付近だったから、かなり遅い朝だ。今後の散歩は当分この列車にお世話になるから、冬至の頃はどの辺りまで暗闇を体験できるのか逆に楽しみとも言える。
6時38分、本宮駅に到着。プラットホームは郡山方面へと通学する高校生で賑わっていた。
本宮駅前もまた、彼らを送迎するクルマで混雑を見せている。私の降りた電車の6分後に到着する下り列車に乗車する高校生もいるだろうが、本宮市は郡山都市圏に属すだけあって、二本松市福島市よりも郡山市内への通勤通学者が多い地域と言えよう。
奥州街道に出、テクテク南下する。二本松街道(会津街道)が分岐する太郎丸地区で商店街が尽き、沿道には住宅と田畑とが交互に展開するようになる。細かいアップダウンもあって、なかなか歩き応えのある道だ。
この辺りの奥州街道は県道須賀川二本松線に指定されているだけあって、通過するクルマの量も少なくない。やはり郡山市内への通勤者かと思いきや、パナソニックエレクトロニックデバイス本宮工場をはじめ本宮市内に点在する工場への通勤者も少なくないようだ。
五百川を渡り、郡山市へと入る。
すぐに、高倉宿へと入る。東側にはかつて伊達氏が南下政策の最前線として陣取っていた高倉城址が所在する高倉山、西側には濠のように五百川が流れるという要害の地だが、今はひっそりとした集落だ。時計を見ると、7時20分過ぎ。ちょうど小学生の登校時刻にあたっており、何人かとすれ違う。郡山市の小学生は、私服の個別通学が基本のようだ。そして、挨拶がない。仙台市と同じで、そっけない。
唯一「おはようございます」と挨拶してくれた小学生とすれ違った辺りは、もう集落の南端で、五百川が遠くに去った後のスペースには福島県農業総合センターの立派な施設が建っている。県の中央部にある郡山市にこのような施設があるのは効率的にはよろしいのだが、県の施設としてはこの他にも果樹研究所が福島市飯坂町平野、畜産研究所が福島市荒井、農業短大が矢吹町にある他、会津坂下町や相馬市にもそれぞれの地域に適した作物の研究を行っている機関があり、散在しているのが現状だ。
高倉宿から日和田宿までは、人家が殆どない。歩道も設けられていないので、クルマが通過するたびに肝を冷やす。郡山市方面よりも本宮市方面へのクルマの方が多いようだ。彼らもまた工場への通勤者なのだろうかと推察しながら南下する。
磐越自動車道をアンダークロスすると住宅が増え始め、日和田の町へと入る。歩道も復活し、歩きやすくなる。沿道には松並木。往時より植えられていたものがある程度保存されており、街道の雰囲気を味わえる。また、左手には松尾芭蕉が訪れたという安積山を整備した安積山公園の入口が見えており、都市化が進む中でも歴史を重視した開発姿勢が感じられる。
この辺りになると、郡山方面へのクルマもだいぶ増え、所々で渋滞が発生してもいる。ただし、その原因の大半は、脇の細道から合流しようとするクルマによってもたらされたもの。ボトルネックが解消されるとクルマは霧散し、往来は一転して静かな雰囲気へと変わる。日和田宿には旧家が目立つから、個人的にはクルマがない方が似つかわしく思う。
日和田駅の南側で、奥州松の大橋を渡って東北本線の線路を跨ぐ。東日本大震災で被災したこの橋は、現在車両通行止となっている。歩行者の通行は妨げられていないようなので私は歩道を渡ったが、あまり褒められた行為ではなかったかもしれない。
橋の南側は区画整理された新興住宅地で、この界隈にも往時より植えられている松がきちんと保存されている。また、これとは別に、真西に位置するショッピングモールフェスタまで延びる道に松並木が設けられてもいる。奥州松の大橋の名称といい、松は日和田のシンボルとして根付いているように感じる
住宅地の中の軽いアップダウンを二つ超えるともう福原宿。周辺の家々が比較的新しいのに対しこの界隈だけ旧家が目立つので、宿場町だったという史実は比較的分かりやすい。街灯も、やや洋風だが洒落たデザインに統一されている。
が、現在の福原は郡山市富久山町の一部であり、郡山市中心部から市街地が拡大してきて発展したとおぼしき南の久保田地区と併せて、富久山という街を形成しているように思われる。行政センターや小学校、銀行といった地域の中核をなす施設も、福原と久保田との中間に設けられている。
時計の針が午前9時に近づきつつあるせいか、奥州街道を行き交うクルマの通行量はさほど多くない。ただし、内環状線国道288号線など奥州街道と直交する道路に関しては、それなりに活況を呈しているようだ。余談だが、これらの道路は、本年内か来年初頭になるかはわからないが、今後の散歩にて歩く予定を立てている。行程については後日の日記で、発表しようかと思う。
国道288号線を渡ると左手前方にビッグアイが見え始め、いよいよ郡山に入ったとの感が強くなる。磐越西線をアンダークロスし逢瀬川を渡ると、郡山宿を起源とする郡山市の中心街。ただし、高層ビルやマンションが建ち並ぶ郡山駅前にくらべ、奥州街道沿道は古びた感じの建物が少なくない。東日本大震災郡山市では多くの建物が損壊する被害を受けたが、この手の建物の存在が被害を拡大してしまった面がなくもないのではなかろうか。
だから、震災に強いまちづくり、区画整理など、早急に進めて欲しいと思う。郡山宿の北部にあたる大町などは区画整理の計画があると聞いているが、私が見た限りでは事業が進捗しているようには見えなかった。
駅前大通りとのスクランブル交差点を渡ると、石畳で舗装されたなかまち夢通りへと出る。沿道の商店が開店準備を進めており何かと慌ただしい様子だが、どこからか小鳥のさえずりのような音が聞こえ、妙に落ち着いているというか、おっとりした雰囲気がが感じられる。人通りはまだ多くないが、自転車通勤のサラリーマンらしい姿が何人か見られた。
石畳の区間主要地方道小野郡山線との交差点で終わり、再び普通の舗装道路へと戻る。文化通りの延伸工事が行われている界隈だけは何かと賑やかだが、それ以外は古びた商店が建ち並ぶ変哲のない通りだ。いや、郡山市の南北軸がすぐ西側を通る国道4号線(昭和通り)と東北新幹線の東側を縦貫する東部幹線であることを考えると、奥州街道は裏道的な雰囲気すら漂う。本町(もとまち)には「南銀座商店街」の名が書かれた街灯が建ち並んでいたが、この界隈が銀座的な賑わいを見せていたのは、かなり昔のことではないかと推察される。
本町の南端で東北本線の踏切を渡ると、小原田へと出る。郡山市の繁華街とほぼ地続きだが奥州街道の宿駅であり、1924年郡山市が市制施行するまでは安積郡小原田村という独立した村であった。旧家は殆ど見られないが町中に二か所ほど枡形(クランク)が見られたり街道から奥まった所に位置する寺院への参道が分岐するなど、道路構造に往時の面影を残している。面白いのは、小学校の校門も寺院と同様街道に面して門柱を設けていたことで、児童はこの門柱をくぐった後住宅が建て込む中を100メートルほど歩いて登校する形になっている。
国道49号線との交差点を渡ると、次の宿場となる日出山。郡山駅から安積永盛駅にかけての区間は、とにかく宿場町が多い。日出山は小原田とは異なり、沿道に旧家が結構残っている。右手は東北本線郡山貨物ターミナル駅、左手は東北新幹線の高架橋にそれぞれ挟まれ空間的な狭っ苦しさを感じる地域なだけに、旧家が連なる様はある種オアシスのようにも感じる。
が、そんな僥倖も前方を横断する笹原川によって無残に遮られ、奥州街道は東部幹線に合流せざるを得なくなる。歩道が整備され歩きやすい道だが、街道歩きの妙味は完全に減殺されてしまうのが少々悔しいところ。郡山南インター線との交差点を通過すると左手には東北新幹線に代わって阿武隈川の堤防が近付く。ゴールはもうすぐだ。
「奥久慈清流ライン」と書かれた水色の幟がはためく水郡線の分岐駅・安積永盛駅に到着したのは、9時53分のことであった。散歩でこの駅を利用するのは、実に2007年7月29日以来のことである。
次回の散歩はこの駅を起点に、郡山市内を「縫うように」歩いてみたいと思う。