2013年3月24日 ~蒲生まで歩く~

今日は、3月1日以来久々の散歩。
前回までの散歩で一昨年発生した東日本大震災の翌日に歩いて帰宅したルートを逆にたどったので、今回はその続きという訳ではないが、仙台市内の津波被災地を訪れてみようかと考えている。
被災地訪問としては、一応、一昨年の10月に二度に分けて亘理町から仙台港付近まで歩いていたのだが、海岸から1キロ以上離れた主要地方道塩釜亘理線をひたすら北上しただけなので、その片鱗にわずかに触れたに過ぎなかった。だから、今回は、もう少し海岸近くまで行こうかと思う。震災の記憶を風化させないためにも…
桑折駅6時29分発の下り始発電車に乗り、仙台駅7時39分着。東口の駅前広場に出、まずは宮城野大通を東進する。なお、今回の散歩では、宮城野区内のみをひたすら歩き、仙台港の南に位置する七北田(ななきた)川河口の集落・蒲生を訪れる予定を立てている。
 
イメージ 1
 
宮城野大通からKスタ宮城の脇を通り抜け、国道45号線へと出る。ここは、宮城野区の中心地でもある原町(はらのまち)。仙石線陸前原ノ町駅の前には、区役所が建っている。
とは言うものの、原町の街並み自体は、地味目な商店街であり、泉区の泉中央や太白区の長町といった副都心的機能は殆ど見られない。原町の現状が、市内でもあまり注目されない宮城野区の立ち位置を示しているような気がしなくもない。
 
イメージ 2
 
原町から更に4キロほど国道45号線を東進し福田町の交差点を過ぎると、七北田(ななきた)川に架かる福田大橋へと差し掛かる。橋を渡った先の交差点を右折し、蒲生街道(県道蒲生福田線)へと入る。七北田川の堤防上を通っているこの道路を4キロほど進むと、蒲生へと至る。
 
イメージ 3
 
蒲生街道をしばらく進むと、前方に高砂大橋が見えてくる。写真からだと分かりづらいが、仙台東部道路(上段)と主要地方道仙台塩釜線(下段)の二層構造になっている大きな橋だ。海岸からはまだ3キロ以上の距離があるのだが、東日本大震災津波はこの橋の袂まで到達したという。
 
イメージ 4
 
高砂大橋から先は、住宅街が続く白鳥地区。この地域の津波浸水は比較的軽微だったようで人々の生活が戻り、地域内にある中学校では部活に励む生徒の姿が見られた。
ところが、主要地方道塩釜亘理線が架かる高砂橋を渡ると、様相が一変する。
 
イメージ 5
 
1階部分が被災したまま放置された家屋、あるいは全壊したのか解体され更地となった土地… 高砂橋より海側の地域では、凄惨な光景が展開していた。2階部分を利用して何とか居住を継続している家屋やアパートもあったが、圧倒的に少数派。大半が荒れるに任せゴーストタウンに近い状況となっていた。
この地域には友人も住んでいたし、被災前の状況もある程度知っているつもりだ。それだけに胸が痛むし、駆ける言葉が見つからない。しかし、被災から2年も経って未だこの景観とは… 正直、正視に堪えない。
 
イメージ 6
 
蒲生の中心集落からやや内陸に位置する場所に、小学校が建っていた。ここも被災し、1階部分がむき出しになっている。壁面には「野鳥と自然を友だちに」というスローガンが掲げられていたが、皮肉なことに自然の猛威が校舎を、そして地域を破壊する結果を招いてしまった。
ちなみに、野鳥とは、海岸近くにある蒲生干潟に群がる野鳥のこと。干潟は津波の被害を受けた他その後の台風被害もあり野鳥の楽園としての地位が危ぶまれていたが、現在はある程度の回復を見せているという。
が、干潟以上の問題は、蒲生の中心集落の家屋が一軒残らずなくなっていること。災害危険区域に指定され集団移転の対象となってしまったため、この地で小学校が再開することももうないのだろう。
これからの蒲生はどうなってしまうのだろう… 海岸近くまで続く更地を眺めながらふと考えた。
 
イメージ 7
 
小学校のすぐそばには「東日本大震災慰霊の塔」が建っていた。犠牲者の方の冥福を祈りつつ手を合わせ、蒲生を後にした。
 
イメージ 8