2012年3月21日 ~5年ぶりの旧東和町~

前回の散歩で大玉村を堪能した余勢を駆って(?)、今回の散歩では二本松市北東部の旧東和町を堪能したいと思う。訪れるのは2007年4月28日以来だからほぼ丸5年ぶりのご無沙汰だ。我が家から比較的近い~少なくとも直線距離は郡山市より近い~にも関わらずこれほどまでにブランクが開いてしまった要因は、阿武隈川の橋制覇やら東邦銀行の支店巡礼やら妙なイベントにかまけていたせいである。東和町の西端には阿武隈川が流れているものの架かる橋は県道二本松川俣線が通る新舟橋のみであり、しかもこの橋は5年前の散歩で歩いてしまった。また、東和町を含む二本松市東部(阿武隈川以東)には東邦銀行の支店は存在しないので、再訪する機会が得られなかったのである。
反面、今回は縛りのない自由な行程だから、思い切り良く旧東和町を堪能できそうだ。と言っても、さすがに時間と体力の限界はあるので旧町役場(現支所)所在地の針道まで行くのは難しく、前回の散歩の終点だった二本松駅を起点に主要地方道原町二本松線を東進した後旧町西部の太田、木幡を経由して福島市飯野町へと北上しそこから西へと向きを変えて松川駅までという行程で考えている。それでも歩行時間は4時間を超えることが見込まれるので、朝5時半に自宅を出発する際「帰宅は正午過ぎになると思う」と妻に伝えてきた。
 
つい先日、3月17日にダイヤ改正があったはずなのに相も変わらぬ桑折駅5時41分発の上り始発電車に乗車し、二本松駅6時28分着。まずは二本松市の中心街を東進し、国道4号線へ。この先長いことお世話になる原町二本松線の通る安達ヶ橋が、国道を跨いで前方に大きく架かっているのが見える。この橋は国道やこれに並行する東北本線、そして阿武隈川をひと跨ぎにして、阿武隈川対岸の安達ヶ原へと至っている。だから「安達ヶ橋」というネーミングなのだろうが、「ヶ」の使い方が多少妙に感じるのは私だけではないかもしれない。
橋を渡った先には、安達ヶ原の鬼婆伝説が残る黒塚、そして安達ヶ原ふるさと村の諸施設が展開している。ふるさと村の玄関には、「がんばろう浪江! 浪江町とともにがんばる二本松!」と大書されたボードが掲げられていた。二本松市福島第一原発事故で避難を余儀なくされた浪江町の住民を数多く受け入れており、浪江町の町役場機能も市内へと移転している。ただし、全町民を受け入れるだけのキャパシティはなく、浪江町民が暮らす仮設住宅は、福島市桑折町など中通り北部の各所に分散する結果となっている。
いったいいつまでこのような状況が続くのだろう… と思案していると、後方からその浪江町の名前が書かれたマイクロバスがやってきて、私を追い抜いて行った。そう言えば、浪江町の町立中学校は針道にある廃校になった小学校を利用して再開したはずだ。毎日10キロを超える距離をバス通学とは大変だ。その姿を目の当たりにし、再び思案に耽ってしまう私。
原町二本松線は、二本松市と旧東和町とを結ぶ幹線道路だけあって、通勤時間帯にはそれなりの需要があるようだ。先ほどの浪江町のバスの他にも、福島交通の路線バスや旧東和町の各地を走る二本松市コミュニティバスの回送便などが行き交っている。もちろん、一般の乗用車の通行も少なくない。ただ、クルマの流れを見ると、各車が一定の速度、間隔で走っているのではなく、数台ごとにひと固まりとなっているのが特徴だ。先頭車両は大抵軽自動車か軽トラで、運転しているのは十中八九お年寄り。そして後続のクルマが何台か続くというのが定番のパターンらしい。そう言えば、安達ヶ原ふるさと村の前から先、この道路には信号機が全く設置されていない。このこともまた、このパターンが定着する要因になっているのかもしれない。
左手に阿武隈川がチラリと姿を現すと、短区間ではあるが旧岩代町に属する下長折を通過する。右手から主要地方道飯野三春石川線が合流し、ここから太田までは両主要地方道の重複区間となる。合流点の近くには安達東高校があり沿道にもその旨の看板が立っているが、周囲は丘陵ばかりで眺望がきかないため、校舎を目にすることはできなかった。
合流点から少し進み、藤という名のバス停を通過。公衆便所が設けられ、バス停にしてはなかなか立派な施設だ。そう言えば、針道の少し西にある競石(くらべいし)というバス停にも公衆便所が備わっていたことを思い出す。いよいよ旧東和町が近づいてきた。気分が高揚する。
田村市船引町から流れている移川に架かる小瀬川橋を渡ると、いよいよ旧東和町。「日本のボストンマラソン 東和ロードレース大会」などと書かれた看板を目にし、そのいささか大仰な表現に、却って感動を覚えたりする。その看板のすぐ近くには「和牛の里とうわ」と書かれた牛を象った看板も立っている。福島県内の和牛産地といえば原発事故の影響で計画的避難区域に指定された飯舘村の名前がまず挙がるが、旧東和町や旧岩代町など二本松市東部も和牛の飼育が盛んな地域であるようだ。
更に歩を進めると、太田の集落に入る。郵便局や住民センターなどの施設もあり、比較的規模が大きい。久方ぶりに信号機も登場するほどだが、この地にあった小学校は、残念なことに2010年に旧東和町内の他の小学校とともに統合されてしまっている。旧東和町の人口は約7,000人。小学校は7ヶ所あったから統合自体ははやむを得ない部分があるけれど、いささかドラスティックな感がなくもない。
ちなみに、集落内にあった下太田小学校は、現時点で校舎、体育館、校庭すべてそっくりそのまま残っており、正面玄関脇には閉校を機に建てられた石碑があった。石碑には校歌の歌詞が書かれており、作詞作曲者が同一人物とのことであった。これは非常に珍しい。また、石碑の隣には、二宮金次郎の像が立っていた。早朝散歩でお目にかかったのは、一昨年の6月に付近を通過した田村市立上大越小学校以来だったかと思う。
 
太田の集落内では、原町二本松線と飯野三春石川線とが再び分岐する。後者を北上すればダイレクトに福島市飯野町へと向かえるが、私は少し遠回りをして、太田から1.5キロほど東へ進んだ深田という小集落で左折し、木幡の中心集落である田谷へと向かうことにした。
田谷への道のりは、アップダウンこそややきついものの、歩道の整備された比較的歩きやすい市道。最近整備された模様で、沿道に人家は殆どない。その代わりと言っては何だが、クルマ一台通れるほどの細道が所々で分岐しており、その先を辿っていくと周囲に展開する丘陵の中腹辺りに人家があったりする。面白いのは、各家の新聞受が、町道と細道との分岐点辺りに設けられていること。確かに一軒一軒玄関先まで回れば配達員は相当くたびれそうだし、ある意味納得のロケーションである。
田谷の集落に入る。ここもまた、郵便局や住民センターがあり、そして小学校(木幡第一小学校)が「あった」。また、毎年12月に開催される奇祭・木幡の幡祭りの行列が出発する拠点ともなっている。興味深かったのは住民センターの所在地で、1979年に閉校した木幡中学校の跡地に建てられていた。
田谷から先は、県道二本松川俣線を北上し、幡祭りの行列の終点となる穏津島(おきつしま)神社の入口にあたる才の神という集落から分岐する県道木幡飯野線へと分け入る。そう言えば、「木幡」の読みは長年「こわだ」だと思っていたのだが、県道の標識を見ると「Kohata」となっていた。どうやら「こはた」で良いようだ。
木幡飯野線は近年大幅な改修が行われたらしく、歩道の整備されている箇所も多い。アップダウンは少なくないが深田から田谷への道のりに比べるとさほどでもなく、沿道にも集落がいくつか点在している。その中の一つ、旧東和町の北端に位置する高槻という集落は、神楽の里ということで地元では知られているらしい。木幡の幡祭り、あるいは針道のあばれ山車と、旧東和町は民俗的な行事が数多く残っている地域だな、と思う。
高槻から先は長い下り坂となり、その途中に、福島市飯野町との境界がある。標識は「福島市」「二本松市」となっているが、つい数年前までは「飯野町」「東和町」だっただけに、若干の違和感が残る。
坂を下りきると、もう飯野町の中心部。住宅街に差し掛かる辺りで、旧飯野小学校に飯舘村から避難してきた人たちが入居する仮設住宅がある旨の看板を目にする。飯野町やその東隣にある川俣町は飯舘村からの避難者を多く受け入れており、飯野支所内には飯舘村の役場機能が移転している。
そんな一面を持つ飯野町中心部であるが、商店街を歩いてみると、UFOを象った街灯に「つるし雛まつり」と書かれたピンク色のフラッグが掲げられているのが目立つ。地域起こし的な雛祭りイベントは福島県に限らず近年目覚ましいものがあり、中通り北部では桑折町とこの飯野町のイベントが双璧だ。従って、桑折町民の私が飯野町中心部を歩くのは、一種の敵情視察と言えなくもない。なお、つるし雛まつりのイベント自体は3月4日で終わっているものの、私が見た限りでは、今なおつるし雛を飾っている商店が散見された。
商店街を過ぎると、あとは松川駅へと進むのみ。とは言うものの、二本松駅から飯野町までの間に既に3時間半以上歩いており、ここからまだ歩かなければならないのかと思うと、自分で選んだ行程とはいえ多少ウンザリする。
再び丘陵の中を上り下りながら進むと、左手には久々に登場する阿武隈川。そして逢隈橋を渡って福島市松川町へと入る。いよいよ松川だと一安心するが、橋の周辺から松川駅付近までは1955年まで安達郡下川崎村だった地域であり、かつて安達郡の中心地だった二本松駅から(飯野町周辺を除いて)延々安達郡を歩いたということになる。安達郡は、広い。そして、アップダウンが多い。
なお、逢隈橋は、老朽化が進んでいるため、現在架け替え工事が進んでいる。今のところ取り付け道路の整備が優先して進められており橋脚などの主要設備に取り掛かるのはまだまだ先の話になるようだが、完成の暁には、改めて訪問せねばなるまい。
また、松川駅に近づき、国道4号線をオーバークロスする少し手前の地点だったろうか。沿道の左右に、国鉄川俣線の跡とおぼしき築堤や切り通しが見えた。松川駅から岩代飯野駅を経て岩代川俣駅へと至っていたこの路線は、今年で廃止から40年の節目を迎える。何らかの記念イベントが行われるのであろうか。多少気にかかるところだ。
散歩スタートからジャスト4時間半で、松川駅に到着。