2012年6月18日 ~新企画は郵便局巡り(12) 山舟生局・梁川局(後半)~

アジサイでは少々時期を外す結果となってしまったが、山舟生では、別の意味で気になるものをいくつか見つけた。
集落内の各所で、下の写真に掲げたような立看板を何度も見かけたのだ。のどかな山村には似つかわしくない代物である。
一体どうしたのだろうと帰宅後に調べてみると、山舟生では梁川町内における除染後の放射性物質の仮置き場が設けられる予定になっており、これに対して住民が猛然と抵抗しているとのこと。除染の必要性はみな感じているが、お膝元に仮置き場ができるのは反対。そんなところだろうか。更に調べてみると、山舟生や白根では上水道が整備されておらず、この点も、住民の不安を煽る一因となっているようだ。
とにもかくにも、原発事故後の対応について、いろいろと考えさせられる風景であった。
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緩やかな坂道を下りきると、県道川前梁川線と合流。ここから先、梁川町中心部までは、ほぼ平坦な道となる。歩道も整備され、歩くには申し分ないロケーションだ。
中心部へと戻る途中、富野小学校の前を通過する。富野は白根や山舟生と同様に1950年代の昭和の大合併までは独立した村であったが、郵便局も簡易郵便局も設置されていない。その分だけ集落自体は小規模に見えなくもないが、至近にある阿武隈急行富野駅は福島駅方面からの区間列車が一部終着となり、ちょっとした運転上の要衝となっている。
富野小学校の様子を見ると、校舎は比較的新しいものの体育館は旧態依然とした木造建築で、ちょっとアンバランスな印象を受ける。実はこの状況は、白根や山舟生、あるいは前回の散歩で至近を通過した五十沢(いさざわ)の小学校でも同様であった。多分体育館はリニューアルされることなく、数年後に役目を終えることになるのだろう。そう考えると、少し淋しい。
左手に希望ヶ丘という新興住宅地が見えたところで左折する。ここはもう、梁川町の中心部である。
徐々に住宅や商店が増えてはくるものの、市街地の中央を横断している広瀬川から北側は、どことなく古臭くてくすんだ雰囲気が残る。
梁川郵便局は、そんな町並みの一角に立っていた。建物自体は新しい。ATMで100円を入金すると、通帳の見開きページが入金記録で埋め尽くされた。この通帳は1ページにつき12回分の入出金記録が記載可能。梁川郵便局は24局目の訪問となるから、丸々2ページ分の記載ということになる。
郵便局を出て南に進むと、広瀬川に架かる広瀬橋に差し掛かる。橋そのものもこれまでの町並みとは打って変わり広くて立派だが、広瀬川の川岸もまた、これでもかとばかりに護岸工事が施されているのに驚かされる。写真に紹介するのは、堤防を利用した屋外ステージと、橋の袂に立っている美術館。この美術館では梁川町出身の彫刻家・太田良平の作品を数多く展示していることで地元では知られている。太田は裸婦像を得意としたらしく、広瀬橋の歩道をはじめ美術館周辺には、彼の手がけた裸婦像がいくつか設置されている。それはそれで芸術と呼べるものなのだろうけど、狭い範囲で何度も見せつけられると、若干卑猥な雰囲気がしなくもない。
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広瀬橋から南側は、広瀬大通りと名付けられた道が、市街地の南端に位置する梁川駅や旧梁川町役場(現・伊達市役所分庁舎)方面へと続いている。ご覧の通り、 歩道や街路樹が設けられた立派な道だ。今回の散歩ルートの大半は山道であったが、ラストはガラッと変わって近代的な街路というのも面白い。
ちなみに、この大通りは、1980年代後半に作られたものらしい。梁川町内に多大な被害をもたらした1986年8月5日の洪水、また1988年の阿武隈急行開通など、この時期は梁川町が新しく生まれ変わる契機がいろいろとあった模様だ。そんな歴史を伝える存在として、この大通りは今後時を刻んでいくのかもしれない。
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散歩開始から間もなく3時間になろうという午前11時過ぎに、梁川駅に到着。本社や車両基地を併設する阿武隈急行の主要駅だが駅舎はさほど大きくはない。乗降客数もまた、今回の散歩の起点となったやながわ希望の森公園前駅の後塵を拝しているようだ。
とは言うものの、ホームには10人近いお客さんが待っていた。次の電車は11時12分発の福島行。これに乗り遅れると帰宅が1時間ほど遅れてしまうので、私も慌てて切符を買い、ホームの一団に加わった。
次回の散歩は、この梁川駅を起点に、梁川町内で唯一未踏破となっている町南部の堰本郵便局を訪れた後、更に南下して霊山町方面を歩く予定を立てている。
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