2012年10月13日 散歩だか観光旅行だか… 会津若松編 その4
七日町を堪能した後は、下野街道に入り、城下町南西端の材木町まで歩こうかと考えている。写真は、越後街道との交差点に程近い桂林寺町(現町名は中町、日新町、西栄町、本町に分割されている)の様子。旧家が点在し、いかにも城下町らしい佇まいだ。歩道もタイル敷きで整備されているし、歩き甲斐がありそうな雰囲気だ。
なお、下野街道は、その名の通り下野国の日光市今市までを結ぶ街道で、大内宿や南会津町田島などを経由していた。下郷町楢原以南においては現在の国道121号線のルーツとなる道であるが、会津若松の市街地においては主要地方道会津若松三島線や県道中沢西若松停車場線に指定されている。なお、会津地方以外では、会津西街道と呼称されることが多い。
桂林寺町から左折、右折と繰り返すと、融通寺町へと入る。現在は本町と改称されている。本町は、「ほんまち」と読む。福島県内だと「もとまち」と読むケースが圧倒的に多いので、いささか奇異に感じる。
ここが本町となったのは、戦国時代まで会津地方を治めていた蘆名氏がこの地に居館を構えていたことに因むという。従って、若松(もっとも、蘆名氏の治世時点では黒川と呼ばれていたのだが)城下発祥の街ということになるし、事実、そうPRする標柱が町内の何ヶ所かに立っていた。
ただし、現在の融通寺町は、蘆名氏ではなく彼らを滅ぼした伊達政宗のPRが目立つ。会津地方にとって政宗は敵、そして侵略者であったから珍しいなと思う。なんでも町内にある小舘山稲荷神社の境内にて政宗が母・保春院に毒を盛られるという事件があったそうで「政宗命危うしの地」と書かれたいささか物騒な看板も立っていた。
融通寺町から右折。湯川を渡り、只見線の踏切を渡って左折すると、材木町に入る。城下町の端ということもあり観光的な要素は殆ど見られず、何の変哲もない商店街といった雰囲気だ。むしろ、至近にある西若松駅の駅前商店街として、地元の人々に密着し生活感に溢れた街のような気がする。つい先日材木町を学区に含む市立第四中学校がNHK全国学校音楽コンクールの合唱の部で日本一となる金賞を受賞したこともあり、祝福のメッセージを店頭に掲げている店も見受けられた。