2015年3月11日 ~福島市・伊達市の高校めぐり(番外編) 入試問題を解いてみる~

今日は休日だったが、訪問予定校の一つである福島北高校でⅡ期選抜入試二日目の面接試験が行われるとのことだったので、無関係の人間が周辺をうろつくのも誤解を招く行動だなと思い、散歩は自重した。天候もまた小雪だったことから、終日家でダラダラと過ごす。
が、これではイカンと思い直し、昨日、Ⅱ期選抜試験初日に実施された筆記試験の問題に目を通し、実際に解いてみることにした。実は昨春もチャレンジしたのだが、どうにも歯が立たず、自分の中学生時代にマークしていた正答率よりもかなり悪い成績で玉砕していたりする。そこで、昨年4月に上の子が中学校に入学したのを機に私もまた勉強し直し、1年生の学習内容ならば中学生時代並みの点数を取れるまでに一応回復した。したがって、今回は、ある程度修練を積んだ上でのリベンジということになる。
結果は… それなりに学習に取り組んだ甲斐があって昨春よりは正答率が高かったものの、2、3年時の学習内容から出題された問題に躓くケースも少なくなく、ちょうど昨年の結果と中学時代の中間の正答率に落ち着いた感がある。今年1年も上の子とともに2年生の学習内容を中心に勉強し、来春の筆記試験の問題では更なる正答率の向上を目指したいと考えている。
筆記試験に取り組んでみて感じたのは、とにかく記述式の回答が多く、筆記する量が半端ではないこと。そのため全教科で制限時間ギリギリまで問題と格闘しているパターンになってしまい、終盤の問題ではかなり適当な答えばかり書いていたようだ。なお、数学では、制限時間いっぱいまで使っても最後の問題まで到達することができなかった。また、社会の歴史や公民の分野においては最近起こった動きに関して取り上げた問題もあり、学校の勉強にとどまらず、日頃から新聞やテレビのニュースに接し、情報を仕入れていく必要性を痛感した。

2015年3月8日 ~福島市・伊達市の高校めぐり③ 福島明成高校、福島工業高校、福島商業高校~

休日になると何故か所用や悪天候が重なってしまい。前回の散歩から3週間も経ってしまった。さすがにここで歩かないと、まずいなと思う。今日の天候もまた予報ではあまり良くないとのことだったが、半ば強引に出発することにした。
桑折駅7時45分発の電車に乗り、前回の散歩の終点だった南福島駅に8時15分着。今回はここから、農業系高校の福島明成高校を皮切りに、福島工業高校、福島商業高校と、福島市内に点在する実業系公立高校3校を、まとめて来訪しようかと思う。
福島明成高校は、南福島駅の西側にある。駅舎が東側にあるのでいわゆる駅裏だが、南側にあるアンダーパスを通って駅から徒歩8分程度で到着。今日は日曜日なので授業は行われていないが部活に向かう生徒がおり、私と同じ電車を降り歩いたり、学校のウインドブレーカーを羽織って自転車に跨っていたりと、学校周辺には同校の生徒が数名見受けられた。
周辺は現在は住宅地となっているが、当時は福島農蚕高校と呼ばれていた同校がこの地に移転してきた1970年前後は一面の水田、あるいは果樹園だったのだろう。学校の敷地はかなり広く、しかも専用のビニールハウスや果樹園も完備ときている。また、同校の設立は1896年であり、福島市周辺に現存する高校の中では最も歴史が古く、農家の後継者が通う学校として長年機能してきた経緯がある。
とは言うものの、農業系の高校ということもあってか、専業農家が少なくなった1980年代から1990年代にかけては福島市周辺ではいわゆる底辺校として認識されており、1990年代に私が大学生だった頃も、南福島駅のホームで屯する同校の生徒とおぼしきヤンキーをちょくちょく見かけたものである。ただ、1997年に学科再編とともに現在の校名に改称して以降は、徐々に偏差値も上昇し、底辺校の地位からは脱却したようである。
福島明成高校の敷地を過ぎてもそのまま西進し、大森の町へと出る。戦国時代の城下町がベースになっている町並みだけあって、他の近郊住宅地には見られない趣というか歴史の匂いを感じるものの、残念ながらそれが町づくりに十分に生かされているとは言えないようにも思う。同じことは、奥州街道の宿場町がルーツである瀬上や松川(八丁目)にも言えるかもしれない。
大森からは、大森街道(県道福島水原線)を歩いて福島市中心部に出るか、それとも遠回りして福島西道路を歩くか少々迷ったが、3週間ぶりの散歩ということもあり、後者を選択。なお、福島西道路は、現在は大森が南端。将来的は南に延伸し国道4号線と接続する計画があるものの、工事はおろか家屋の立ち退きも進んでいない模様だった。
大森から荒川を渡るまでの3キロほどは沿道にロードサイドショップどころか住宅すら張り付いておらずせっかくの4車線道路が活かされていない観がある福島西道路であるが、荒川から北は一変。沿道にはロードサイドショップをはじめ商店や住宅が立ち並び、しかも線だけではなく面的に整理されている。福島市の郊外住宅地というと狭くクネクネとまがった道路に沿って住宅が野放図に張り付く光景が結構多いのだったが、ここは別格だ。
沿道の風景に見入ってしまい高校探訪という本来の目的を忘れかけてしまうほどだが、奥羽本線(山形新幹線)と立体交差して1キロほど先にあるコープマートの所で右折。これが次の訪問先である福島工業高校への近道になるのだが、沿道はいかにも先ほど書いた福島市の郊外住宅地。道路こそ直線的だったものの幅は狭く、車の離合にも一苦労といった風情。そんな風景が1キロほど続き、飯坂街道(主要地方道福島飯坂線)や信夫山が近づくと、福島工業高校の敷地に差し掛かる。同校は1948年開校と福島市内の高校の中では比較的新しく、だからこそ中心部から少し離れた場所に設置されたのだろうが、その割には校庭が狭い。私が通りがかった時には野球部が練習していたが他の部活が練習できそうなスペースはなく、恐らく各部がローテーションで校庭を利用する形になっているものと推察される。ちなみに、サッカー部は福島県内でも屈指の強豪校。
また、同校は福島高校の略称である「福高」との混同を避けるために「県工」と呼ばれることが多いのだが、校舎に掲げられた校章には「福工」の文字が書かれていたことも、印象に残った。校庭といい校名といい、なにかと制約が伴う学校のように感じられた。
さて、残るは福島商業高校を残すのみ。同校は、福島市北部、松川の北岸に位置する丸子(まりこ)に所在する。福島工業高校からの直線距離はさほどでもないのだが、直線的に結ぶ道路などないから、ジグザグルートを強いられる。飯坂街道を渡って裏道に入り、福島交通飯坂線をアンダークロス、間髪入れずに東北本線の踏切を渡って信夫山の北側に出、これまたいかにも福島市の郊外住宅地然とした一角を通り抜けて国道13号へとたどり着く。ここからは国道13号線をしばらく北進し、松川を渡河。すぐ北側にある交差点を右折する。右折した道路は市道だが地元では「福商通り」という愛称されている。福島市の郊外でこのような愛称がついている道路は非常に珍しい。
この福商通り、現在は沿道に住宅が張り付いているものの、30年ほど前までは田畑が広がっていたと耳にする。福島商業高校は1971年まで福島市中心部の霞町に所在していただけに、霞町で学んだ年配のOBからは「こんな辺鄙な所に移転するとは…」と嘆く声も少なくなかったとのこと。
考えてみれば、今回の散歩で来訪した学校のうち、福島明成、福島商業の両校は、1960年代までは福島市中心部に所在していた。当時は福島大学福島県立医科大学のキャンパスも福島市中心部にあったから、福島市は、通学面に関しては絵にかいたようなコンパクトシティだったということになる。高校や大学の郊外移転は都市が成長を続けていた時代の必然という側面があったとはいえ、成長しきれずに停滞を続けている現在の福島市中心部を見ると、若干もったいないなという気持ちがなくもない。
福島商業高校は、国道13号線の交差点から東へ1キロ強の所にある。ちなみに国道4号線の交差点からも西に1キロほどの地点に位置しており、確かに辺鄙というか、ちょっと足を運びづらい感がある。が、実は東北本線東福島駅から徒歩25分程度、阿武隈急行卸町駅から徒歩15分程度と意外に近かったりする。ただ、駅からの近道はこれまた車の離合が難しい隘路だったりするのだが。
福島商業高校と両駅との中間には、福島市中央卸売市場や卸売団地が所在する。商業高校とこれらの施設がどれほど関連が強いのかはわからないが、高校~卸売関連施設~商業高校が一つのラインで結ばれれば地域全体にとっても何かしらのプラス効果はあるように思う。道路の拡張はできないものだろうか。
そんなことを思いながら東福島駅に着いたのは、10時53分のことであった。散歩を開始してから2時間半以上が経過している。遠回りした甲斐があったというものだ。次回はこの駅を起点に、福島市内の高校で唯一の未訪問校となった福島北高校をはじめ、伊達市内の高校にも乗りこんでいきたいと考えている。

2015年2月15日 ~福島市・伊達市の高校めぐり② 桜の聖母学院高校、福島成蹊高校、福島東稜高校、学法福島高校~

前回の散歩から、1週間以上が経過した。これ以上間隔が空いてしまうとせっかく取り戻しつつある散歩の感覚が薄れてしまうので、今日は何としても出掛けたいと思う。外はあいにく前夜からの雪。しかも自宅周辺は数センチほど積もっており外出を躊躇したくなるほどであったが、数年前はこれより酷い天候の時だって歩いていたし、天気予報でも日中は晴れるとのことだったので、出発強行。桑折駅7時45分発の上り電車に乗りこんだ。
前回の日記でも少し触れたが、今回訪れる高校は、桜の聖母学院、福島成蹊、福島東稜、学法福島の、福島市中心部に所在する私立4校。恐らく併願ということになると思うが上の子が受験する可能性があるだけに、通学路や学校の様子など、目を凝らしてウォッチングしていきたいと思う。
しまった、前言撤回。桜の聖母学院だけは、女子高なので男子である上の子は受験不可。所在地的にも他の3校が福島駅の東側にあるのに対し、ここだけが西側の野田町にポツンと建っている。まずはここからやっつけよう。福島駅のホームに7時59分に到着した電車を降り、西口の改札口を出る。
まずは、西口の駅前広場からまっすぐ伸びる高湯街道(主要地方道福島吾妻裏磐梯線)をひたすら直進。雪はまだ舞っており、加えて吾妻山からの寒風が直接吹き付けるので、体感温度はかなり寒い。ところが外気温はさほど低くはないようで、行き交う歩行者や自転車の跡で歩道の残雪が溶けかかっていたりする。歩を進めるたびにビシャビシャと音がする。そのうち靴の中も濡れてしまうのだろう。
15分ほど歩き、野田町5丁目に入ったところで交差点を右折。歩道のない道路をしばらく歩くと、桜の聖母学院高校に到着。名前から想像されるようにキリスト教(カトリック)系の学校で、正門前では雪をかぶったマリア様の像がお出迎え。この校舎は中高併設だが前の日記でも触れたように学校法人としては福島市役所の近くに幼稚園(3年過程)、小学校、短大を併設しているため、女子であれば17年間もの間この学校法人に在籍することが可能だ。そのおかげかどうかはわからないが、福島市内では「桜の聖母=お嬢様学校」というイメージで、長年捉えられてきた感がある。
偏差値面でも福島市近辺の私立女子高ではトップの座を長年保っていたのだが、最近では福島成蹊高校の躍進が著しく、その座を脅かされつつあるようだ。次はその福島成蹊高校へと足を運ぼうかと思う。両校間の距離は福島駅の東西に跨るから結構離れているのだが、桜の聖母学院高校のすぐ近くを通る県道庭坂福島線と福島成蹊高校の正門前を通過する国道114号線の間は都市計画道路腰浜町町庭坂線として大半の区間が4車線化された幹線道路となっているので、移動自体は意外にスムーズだ。ただ、特に野田町界隈では一昨年の8月に開通したばかりとあってか車も人も通行量が多くなく、歩道の雪も溶けずに積もりっぱなしで、少々歩きづらかった。なお、歩道の雪と格闘(?)している間に降雪の方は収まった模様だ。
腰浜町町庭坂線を30分ほど東進すると、福島成蹊高校の正門前に到着。なんと驚いたことに男子学生が歩道の雪かきに精を出していた。羽織っていたジャンパーの絵柄から推察するに、バスケ部員らしい。私が通り過ぎると「おはようございます」などと挨拶してくる。感心だ。福島成蹊高校に対する好感度が、ワンランクアップした。その目で校舎を見やると、なんとなく新しくて立派で、今の福島市内の私立高校では一番勢いがある学校だな…と感じる。
ところが、かつて福島成蹊女子高校と呼ばれていた頃の同校は、ヤンキーが多く、荒れた校風だったらしい。変わり始めたのは2004年に特別進学コースが男女共学化されてから(同時に校名からも「女子」の名が消えた)のこと。優秀な男子学生が入学するとつられるように女子の進学実績も向上し、更には特別進学コースではない普通コース(こちらの共学化は2007年に実施)の偏差値まで向上するという循環を招くに至ったそうだ。更に2009年には附属中学校まで設立し、偏差値面でも一貫教育の面でも桜の聖母学院のライバルとして並び立つに至った次第。
ちなみに、附属中学校は、高校から北東に500メートルほど離れた所に所在する、せっかくなので、こちらの校舎の前も通り、そのまま北へと進む。沿道は閑静な住宅地だが、少し遠くに目をやると、右手には阿武隈川の堤防、左手には福島競馬場の大きなスタンドが見える。そのうち沿道の景観も変化し、右手には福島市下水処理場、左手には福島交通の車庫が登場する。一気に生活の気配が消えた。こういう景色は正直苦手なので、適当な曲がり角を見つけて左折する。
ところが曲がった先の道路もまた福島競馬場の敷地の北端にかかっていたらしく、刑務所を想起させるような高い塀が沿道に迫り、しかも福島交通の車庫を発着する路線バスや高速バスの回送車両が頻繁に行き来するから、なんとなく落ち着かない。歩く速度も自然と速くなる。
ようやく競馬場の敷地から脱出すると奥州街道(旧電車通り)、更には国道4号線との交差点。右手には福島赤十字病院の緑色の建物が見えている。国道を横切り、更に直進すると今度は左手に福島市音楽堂の建物、更に正面には信夫山とその麓を流れる祓川の親水空間が見えてきた。ついさっきまでの殺風景さとは一変しここは文教地区ムード満点の一角である。
ここで方向転換し、祓川の親水空間に沿って西へと進むと、本日第三の訪問先となる福島東稜高校に到着。ただし、校門、校舎共に信夫山の斜面を少し登った所に位置しているため、そこまでは歩かない。あくまで麓から、特徴的な円形の校舎を見上げるのみだ。
福島東稜高校もまた福島成蹊高校と同じくかつては女子高で、緑ヶ丘高校という名前であった(1997年校名変更、1999年共学化)。昔も今も偏差値はあまり高くはないものの、福島成蹊高校と同じように進学校として生まれ変わる道は歩まず、専門学校への進学や就職などを目指す職業教育に力を入れている様子。なお、同校では卒業後も更に2年間学ぶと看護師国家試験の受験資格が得られる看護専攻科を併設しており、このコースへの志望者も多いようだ。
更に親水空間沿いを西進し、福島県文化センターの前を通過すると、前方には本日最後の訪問校・学法福島高校(正式名称は松韻学園福島高校)の校舎が見えてくる。先に訪れた3校とは異なり、こちらは旧男子校(1998年共学化)。長年福島市内では唯一の私立男子校であったため進学系や実業系の公立高校の滑り止めとして機能してきた経緯があり、現在は普通科の名称にまとめられているものの特別進学、私立文系(以上進学系)、実務選択(実業系)の3コースが併存している。なお、昨年3月に廃校となった南相馬市の松栄高校は同校と学校法人を一とする兄弟校であった。
そんな総合スーパーのような高校だから生徒数も多いのだろうと思いきや、以前はそうだったようだが今はそうでもないらしい。一応募集定員ベースで調べてみたところ、今日訪れた4校のうち最も多いのは福島成蹊であり、次いで福島東稜、学法福島、桜の聖母学院の順であった。大学への進学志望の生徒は福島成蹊高校、工業系の生徒は高校野球の全国的な強豪校で知名度急上昇中である伊達市聖光学院高校というライバルが存在するため、ポテンシャルが活かされないというか、逆に強みをどこで発揮したら良いのか、暗中模索の状況なのかもしれない。
さて、これで4校を訪問し終えたので、帰途につくことししよう。学法福島高校からならば20分も歩けば福島駅に着くのだが、次回の散歩の行程も考えて、一気に南福島駅まで歩くことにした。次回は南福島駅の近くにある福島明成高校(旧・福島農蚕高校)を皮切りに、福島工業高校、福島商業高校と実業系高校3校を訪れる予定を立てている。
学法福島高校のすぐ西側に、前回の散歩でもその前を通過した福島テレビの社屋がある。そこから南へとまっすぐ伸びている道路を、ひたすら南下。この道路の沿道は福島テレビ近辺では多少古びた住宅や商店が並んでいるものの、1キロ弱南下すると福島市の目抜き通りの一つ(とは言うものの、今は人通りもあまり多くないが…)であるパセオ通りへと連なり、更に南下すると奥州街道(旧国道4号線)へと続いている。今回の散歩では前半戦で腰浜町町庭坂線という東西軸を突っ切る形になったが、フィナーレではパセオ通り~奥州街道という(かつての)南北軸を突っ切るというコース取りの妙となる。9時30分過ぎに福島テレビの前を出、ひたすら南を目指すこと50分で、南福島駅付近の商店街へと到着。駅舎は、商店街から右折して3、4分の所にある。
南福島駅から電車に乗るのはかなり久しぶりのことで、私の記憶が正しければ2011年の7月以来だったと思う。1962年に駅が設置された当時から変わらない、小さくて古びた駅舎。いい加減、建て替えて欲しいものである。隣の山形県では昨年4~6月に実施されたデスティネーションキャンペーンにあわせて西米沢(米坂線)、羽前小松(米坂線)、古口(陸羽西線)といったローカル線の小駅の駅舎が改築されたと聞くのだが、今年4月から同じくデスティネーションキャンペーンが開催される福島県では、湯本駅(常磐線)が改築する他福島駅でも東口駅舎の外観の塗色を変えるという話があるものの、これ以上はその手の話題が伝わってこない。南福島駅だってちょっと足を伸ばせば大森城山公園や共楽公園といった花見スポットがあるのだが、そこへのアクセスに駅を活用し玄関口としての駅舎を整備するという考えが欠如している点には、少々ガッカリしてしまう。

2015年2月7日 ~福島市・伊達市の高校めぐり① 福島高校、橘高校、福島東高校、福島南高校(福島中央高校)、福島西高校~

昨年上の子が中学校に入学して以来、高校受験の存在が急に身近に感じられてきた。
が、私は福島県外の出身のため、各高校の特徴などを詳しく知っている訳ではない。
そこで、各高校のデータをネット経由で集めてはいるものの、通学路や周辺の環境などやはり足を運ばないとわからない部分もあり、「そうだ、福島市伊達市の各校を巡る散歩に出掛けよう!」と考えた次第。特に昨年は散歩をサボりがちだったため、体力作りのためにも頑張ろうと思う。
記念すべき(?)第1回目は、福島、橘、福島東、福島南、福島西と、福島市中心部近辺に所在する県立の進学校を回ることにする。なお、今回のシリーズでは、学校を撮影すると不審者と疑われる可能性が無きにしも非ずなので、写真は掲載しない。文章だけではわかりづらい点があるかと思うが、ご容赦願いたい。
桑折駅8時13分発の上り電車に乗り、8時28分福島駅着。まず訪れるのは、福島市内最古かつ市内はもちろんのこと福島県内でもトップクラスの進学校である福島高校。駅前広場から北へまっすぐ15分ほど歩くと到着する。福島高校は信夫山の麓にあるから駅から結構離れているイメージがあったのだが、意外に近い。やはりこういった情報は、歩いてみて初めてわかるもの。
沿道にはMAXふくしまの他には目立った商業施設はなく、その代わりに学習塾の建物が目立つ。さすがは進学校の通学路ではある。MAXふくしまの1階にあるフードコートも、自習中の高校生で満席になることが少なくないらしい。その中には福島高校の生徒も少なからずいるのだろう。あと、沿道近辺には、MAXふくしまの最上階にあるイオンシネマや飯坂街道(主要地方道福島飯坂線)沿いにある福島フォーラムと、映画館が多い(というか、福島市内にある映画館はこの2か所だけ)のも特徴と言えようか。
昨年改築されたばかりの5階建ての校舎を有する福島高校の正門前からは、祓川沿いの道を東進する。祓川と言えばきれいに整備された水辺空間で知られるが、それはもっと東側で展開される光景であり、福島高校付近では用水路にも似た雰囲気のただの小川である。国道13号線を歩道橋でオーバークロスし、福島テレビの前を通過。左側、信夫山の麓には学法福島高校の校舎が見えているが、こちらは他の私立高校と一緒に次回の散歩で訪問する予定を立てている。
一方、右手を見ると、橘高校の校舎が見えている。県庁通りとの交差点を右折し、正門前まで歩を進める。福島女子高校を前身とする同校であるが、現在は共学校。福島高校と同様5階建ての新しい校舎には「橘」の文字が書かれた校章が掲げられており、女子高イメージも払拭されつつあるようだ。
県庁通りを更に南下し、福島大学付属小学校の前で左折。この界隈は福島市役所をはじめ福島地方裁判所福島市市民会館など、行政系の施設が目立つ。桜の聖母学院幼稚園・小学校および短大も、この界隈に所在する。同校は幼稚園から短大まで一貫教育を行っているが、中学・高校だけは福島市街地西部の野田町に所在している、ここもまた、次回の散歩で訪問予定だ。
国道4号線を渡り、その少し東側を並走している奥州街道へと出る。この界隈は1979年まで福島大学教育学部が所在していたこともあり、個人商店を中心とした商店街が続いている。教育学部の跡地は現在、福島大学附属中学校と福島東高校の用地として活用されている。
福島東高校は1980年の開校。福島市内の県立高校では福島、橘に次ぐナンバー3の進学校の位置づけになるが、どういう訳か福島大学附属中学校から進学する生徒は殆どいないらしい。聞いたところによると、福島大学附属中学校は1学年約140人のうちほぼ半分の約70人は福島高校、約20人は橘高校に進学するとのこと。つまり、福島東高校にしか進学できないような成績では中学内では落ちこぼれ的なポジションになってしまう訳。断っておくが、他の中学校であれば、福島東高校に進学するためには少なくとも学年の上位20%以内に入っていなければ安全圏とは言い難い。福島大学附属中学校は他の中学校とは別次元、住む世界が違うのだ。
福島東高校の正門を通り過ぎ、国道114号線との交差点を渡る。左手の少し離れた所には、最近進学校として台頭してきた私立高校・福島成蹊高校の校舎が見えている。ここも次回の散歩…というか、学法福島高校といいここといい、次回の散歩の訪問先が目に入ってしまうのは少し興ざめだ。少しでも既視感を抑えるためにも、次回の散歩のコース取りには気を遣わねばなるまい。
城下町時代の面影を多少残している豊田町の商店街を通り抜け、再び国道4号線へ。しばらく国道を南下するものの、阿武隈川を渡る手前で左に別れ、松齢橋を渡って渡利の街並みへと入る。昔も今も道路が狭く、センターラインもなく一部は一方通行の道路が県道に指定されていたりバス通りだったりする有様。まさに「ザ・スプロール現象」。渡利に限らず福島市の近郊住宅地は福島西道路沿道を除いてこういう場所が大半を占めており、荒井や八山田、御前南といった土地区画整理事業のパッチワークのようになっている郡山市とは好対照をなしている。
松齢橋から続く道をそのまままっすぐ南下すると、左手に福島南高校の正門が現れる。1987年の開校と福島市内の県立高校の中では最も新しいが、敷地自体はそれ以前より定時制の福島中央高校の敷地として利用されていた(現在も併設)し、更に遡れば福島農蚕高校(現・福島明成高校)の敷地でもあった。ただ、住宅がぎっしり並ぶ同校の周辺を見ていると、ここに農業高校が建っていたことなどとても想像がつかないが。
福島南高校は、本日訪れた高校の中では唯一普通科を有さず、文理、国際文化、情報会計の3科で構成されている。歴史が浅いながらそれなりに実績を有する進学校ではあるものの、個性的な名前を持つ学科の内容が保護者に正確に伝わっていない面も否めず、私の住む町からの進学希望は若干人気薄気味。多種多様な職業に触れる機会の多い都市部の住人にマッチした校風なのかもしれない。
福島南高校の敷地を出はずれるとT字路に出るので右折。少し歩くと国道4号線に出る。ここもまた渡利であるが、先ほど歩いた一角とは異なり、さすがに国道、広々としている。少し南下すると弁天橋で、再び阿武隈川を渡河。その先の信号を右折し福島第一中学校の脇を通り抜け、奥州街道を横断して旧国道115号線へと出る。沿道は住宅地だが建物はどことなく古びたものが多い。旧国道の沿道ということで市街化が比較的早かったのだろう。
そんな一角を1キロほど西進し、住宅街の中を通る細道へと右折。この先に、本日最後の訪問校・福島西高校が所在する。橘高校と同じくここもまたかつては福島西女子高という名の女子高であり、しかも商業科が設けられていた関係で4年制大学進学者よりも短大や専門学校への進学、あるいは就職する生徒の方が多かったのだが、共学化後は商業科が廃止される一方で数理科学、デザイン科学の両科が設置されるとともに4年制大学への進学率も上昇傾向にあるという。
福島西高校のすぐ北側には、荒川に架かる八木田橋。あとは、福島駅に戻るだけである。八木田橋で時計を確認すると、福島駅を出てからちょうど1時間半が経過。そこから福島駅西口に10分程度で到着した。
福島西高校から福島駅までもまた、15分程度といったところであろうか。行程の関係で福島、福島西以外の高校と福島駅との間の距離は歩測していなかったが、いずれも20分程度といったところであろうか。交通の便の良さもまた、進学校たる所以なのかもしれない。

2014年10月4日 ~喜多方で朝ラー~

いささか唐突な話になるが、桑折駅5時35分発の上り始発電車に乗って、はるばる(?)喜多方市までやってきた。喜多方駅に到着したのは、8時31分。つまり、約3時間もかかっている。同じ福島県とはいえ桑折駅と喜多方駅とは東北本線磐越西線経由で140.4キロも離れているからこれだけの時間がかかるのは致し方ない半面、8時台に喜多方駅にたどり着けるということは喜多方名物の「朝ラー」も十分味わえる訳で「早起きは三文の得」とばかりに寝ている妻子をほったらかして(おいおい)一人で訪れた次第。
なお、喜多方市を訪れるのは、2010年8月11日(参照URL:http://blogs.yahoo.co.jp/captain4158/62419930.html)以来、4年ぶりのことになる。
 
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4年前に訪れた時と比べて、喜多方市の中心街は大きく様相を変えていた。
まず、街を南北に貫く目抜き通り(主要地方道喜多方会津坂下線および国道459号線)のアーケードが完全に撤去されており、歩道もリニューアル。電柱も撤去され地下に埋設されたようだ。
通り沿いの商店もまた、蔵のまち・喜多方らしい外観へと生まれ変わっている。残念ながら一部に空き店舗があったりするのだが、これらの建物のシャッターにも地元の学生のものとおぼしき絵が描かれており、寂しさを多少紛らわせる役目を果たしている。
 
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さて、朝ラーをいただくとしよう。
目指した店は、目抜き通りから少し東の小路へと入った先にある坂内食堂。4年前も訪れた喜多方ラーメンの有名店だ。あの時は店の前に長蛇の列ができていたが、今朝は並ばずに店内へと入ることができた。
とは言うものの、席は半分超が埋まっていただろうか。しかも、地元の人ではなく観光客とおぼしき2~4人程度の団体の姿が目立つ。私のような一人客も、チラホラと見られた。
 
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ちなみに、こちらが坂内食堂でいただいたラーメン。
 
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坂内食堂にいた時間は、注文待ちが7、8分、食べていた時間が10分程度だったろうか。店を出たのは、9時少し過ぎのことであった。
9時30分に喜多方駅を発つ列車があるのでそれに乗って帰ろうかと思いかけたが、せっかく喜多方市まで来たのだから、街を見て歩かないと少々もったいない。帰りの列車は次の10時26分発(快速あがの)にするとして、それまでの1時間ちょっとの間、腹ごなしも兼ねての市内散策といこう。
まずは目抜き通りに戻り、商店街の北端近くに位置する甲斐本家蔵座敷まで歩を進める。蔵のまちのシンボル的な建物とあって、さすがに立派だ。一般公開もされているがあいにく開館時刻は午前10時とのこと。外観だけ撮影して引き上げることにする。
 
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甲斐本家のすぐ近くから、目抜き通りの西側を並行するように通る石畳の小路が延びている。地元では、歴史的みちすじあるいはレキミチと呼んでいるようだが、この道を通って街の南端近くにある喜多方駅へと戻ろうかと思う。
なお、下の写真の左手に見える建物は、甲斐本家の裏口。そんな一角を縫うように通っているのも、この道の面白いところである。
 
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歴史的みちすじの沿道には、酒蔵がいくつか見られる。そう言えば喜多方市は、会津若松市二本松市と並ぶ、福島県内でも有数の日本酒の産地。ここを訪れるまですっかり頭から抜け落ちていた。
下の写真は、沿道で撮影した吉の川、大和川、㐂多の華の各酒蔵。特に吉の川は建物が道を跨いで広がっており、その間に屋根が渡されているのが面白い。
 
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そんなこんなで立ち止まっては撮影の繰り返しで散策していたため、喜多方駅に戻った時には10時を少し回っていた。短い時間ではあったが、それなりに喜多方の街を堪能できた小旅行であった。

2014年7月23日 ~新庄・松島訪問記②~

陸羽東線に乗ったのもまた、前回新庄の街を歩いて以来だったろうか。
とはいうものの、沿線の風景には記憶に残っているものが殆どなかったりする。沿線で特に目についたのが、アシンメトリーと呼ぶべきなのだろうか「へ」の字型に近い形をした急斜面と緩斜面を組み合わせた屋根の民家なのだが、この種の屋根がそんなに多いという印象は持っていなかった。また、山形県東端となる最上町が結構開けた盆地だったことも、私を驚かせた。確か人口は1万人にも満たないはずであるが、線路とほぼ並行している国道47号線沿いにはスーパーやホームセンター、ドラッグストアにコンビニがいくつか進出していた。郊外でこれだけ商業施設が整備されれば、新庄市内の商店街が寂れるのも致し方ないのかもしれない。
そしてもう一つ、沿線でここ20年ほど、特に山形新幹線が1999年に新庄駅まで延伸されたことに伴って改称された駅が多いことも気になった。瀬見→瀬見温泉、羽前向町→最上、羽前赤倉→赤倉温泉中山平中山平温泉、そして鳴子(なるご)→鳴子(なるこ)温泉… この先にも多数存在するが、キリがないのでやめておく。
私が乗っている列車の方も、13時59分着の鳴子温泉駅が終点であり、ここで小牛田駅行の列車へと乗り換えることになる。改札を出る客もいたけれど、私を含めた大半の客は乗り換えてさらに先へと向かう。新庄駅から乗ってきた3組のカップルも、全員乗り換えた。ただ、新庄駅から乗ってきた列車が2番線、小牛田駅行の列車が1番線に停車しているため、乗り換えには跨線橋を渡らなければならない。残念なことに鳴子温泉駅跨線橋にはエレベーターが設置されていないため、大きなスーツケースをいくつも抱えた白人男性は、持ち運びに悪戦苦闘している様子であった。 
 
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鳴子温泉駅を出、舞台は一気に松島へ!? 小牛田駅陸羽東線東北本線との乗り継ぎがうまくハマれば、実は鳴子温泉駅から松島駅までは1時間ちょっとで着くことが可能。意外に近いのだ。せっかく 松島を経由するのならば、ただ通過するのはもったいない…とばかりに衝動的に降りてみた次第。
松島を訪れるのは、3年前の大震災の直前、2011年の2月以来である。 
 
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瑞巌寺や五大堂、福浦島に観光船の船着場を中心とした観光地としての松島は、松島駅仙石線の松島海岸駅との間、約1.5キロの間に展開している。前衛の島々が防波堤の役割を果たしてくれたとのことで、津波の被害はさほど大きくはなかったようだ。小中学校が夏休みに入ったこともあり、親子連れの観光客の姿が目立つ。 
そうそう、新庄市内でお土産を買うのを忘れたから、ここでお土産を物色しようと思ったのも、松島を訪れた理由の一つ。いろんな店舗を見て回るものの、仙台土産の進出が著しく「これぞ松島土産!」という品物がなかなか見つからない。結局、お土産購入は諦めた。
 
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「松島の観光」といえば、もう一つ忘れてはならない存在が、マリンピア松島水族館。長年松島観光の中枢を担ってきたスポットではあるものの、震災前から老朽化が激しく閉館の危機に瀕しているという悲しい現実もあったりする。
各機関が協議した結果、来年春を目途にマリンピア松島水族館は閉館し、飼育されている魚や動物は仙台港付近に新設される水族館へと移転することが決定したそうだ。となると、今日が私にとって松島水族館の見納めになるかもしれない。立木が邪魔でうまく撮影できなかったけど、それなりに感謝を込めてのショット。 
 
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こちらは松島海岸駅。マリンピア松島水族館とは国道45号線を挟んで対峙している。 松島観光の玄関口としては松島駅よりもこの駅が紹介されることが多いせいか、駅前広場や駅舎内には観光客らしい姿が結構あった。
私もまた、観光客っぽいそぶりを見せながら、その群れに混じる。あとは、仙台駅で東北本線に乗り換えて、帰宅するのみである。
 
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2014年7月23日 ~新庄・松島訪問記①~

「どこかに出掛けたいな…」という欲求の高まりを抑えきれず、小さな旅ホリデー・パスを使い、東北本線仙山線奥羽本線(山形線)を乗り継いで、新庄駅までやってきた。自宅最寄りの桑折駅を6時29分に発ち、新庄駅には11時32分に着いたから、都合5時間の行程。ただし、山形駅で1時間近くの列車待ちがあったのだが…
新庄駅自体は昨夏に秋田県まで一泊旅行に立ち寄った際立ち寄ったのでさほどご無沙汰でもないのだが、新庄の街自体は1998年に訪れて以来16年ぶりの来訪。どんな様子なのか、興味津々状態の「街歩きマニア」な私。
 
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とは言うものの、お昼時ということもあり、まずは腹ごしらえ。駅前通りに「急行食堂」なる曰くありげなネーミングの店があるので、 入ってみることにする。
 
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店内に入ると、客は皆無。店のオヤジは高校野球をテレビ観戦していて、突然の来客に目を丸くしている。ちなみに、放送されていた試合は、山形県予選とはいえ日大山形酒田南という、甲子園常連校同士の一戦。しかも、昨夏の甲子園でベスト4まで進出した日大山形が中盤までリードを奪われている展開だ。
急行食堂は、ラーメンがメインメニューらしく、店頭にも「とりもつラーメン」の幟がはためいていたが、その他にもナッツ入りの「天国ラーメン」、辛味噌系の「地獄ラーメン」があるとのこと。激辛ラーメン大好きの私は、迷わず地獄ラーメンを注文する。
ラーメンを待つ間に、土木作業員とおぼしき二人連れやサラリーマンの一人客、母親に子供複数の家族連れが入店し、ようやく店内が食堂の雰囲気を取り戻す。
唐辛子で真っ赤に染まったスープの地獄ラーメンが到着し、高校野球を観ながら食べる。辛味が強すぎてとてもじゃないが一気に食べられる代物ではなかったので、高校野球がちょうどよい箸休めになった。日大山形は6回裏にノーアウト1、2塁のチャンスを作ったものの、結局無得点。 
結局、正午近くまで観戦し、店を出た。
 
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次に乗る予定の陸羽東線の列車は12時57分発。1時間近く余裕があるので、新庄の街を堪能することにする。
街の雰囲気は、私の自宅近辺の都市だと白石市に似ているだろうか。駅が市街地の東端にあり、旧街道(新庄市羽州街道白石市奥州街道)沿いはアーケードの商店街、駅と旧街道を結ぶ通りもかつてはアーケード設置されていたのだが、1990年代に撤去の上リニューアルされた点もそっくりだ。ついでに言えば、旧街道のさらに西側に城跡があるという位置関係も共通する。
新庄市白石市は現在の人口も3万人台半ばで似通っているのだが、中心市街地の規模だけ見れば、新庄市の方が白石市よりもやや大きいかもしれない。鉄道が3路線走る交通の要衝として、また山形県最上地方の中心都市として君臨し続けている 新庄市新庄市に比べて要衝性の劣る白石市の差と言えようが、市街地が大きい分だけ、その寂れ具合も非常に目立っているのが気にかかる。特に旧街道沿いは、人通りも殆どないうえに半数近くがシャッターを下ろしたままの店舗だったように思う。16年前に訪れた際も空き店舗自体は少なからずあったと記憶しているが、特にアーケード街の北部(北本町)はゴーストタウンに近い様相を呈しており、事態が深刻化しているように感じられた。
当の新庄市も手をこまねいている訳ではなく、岩手県遠野市と並ぶ東北地方有数の民話の宝庫というロケーションを利用して商店街に民話のストーリーを紹介するなど対策を施してはいるのだが、新庄市内に目だった観光施設がないせいもあってか、あまり効果が上がっていない状況のようだ。
 
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新庄駅に戻ると、。陸羽東線の列車がホームで待っていた。
とはいえ、たったの2両編成。12時35分に山形新幹線の列車が到着し多少座席が埋まったが、1両あたり10人前後の乗客しか乗っていない。ただし、客層を見ると、地元の方とおぼしきお年寄りが目立つ一方で、若いカップルが3組も乗っているのが意外だった。私と同じ「乗り鉄」なのだろうか。
彼らカップルの中で特に目を引いたのは大きなスーツケースを三つも運び入れていたカップルで、しかも男性が白人だった。まさか陸羽東線で白人と乗り合わせるとは想像すらしていなかった。
 
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